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葉室山浄住寺

浄住寺

浄住寺


浄住寺

浄住寺


阪急嵐山線上桂駅の改札を出て左へ山田口、山田岐れ交差点を過ぎ更に行くと「右地蔵院」「左浄住寺」の石柱や東海自然歩道の道しるべが立っている。左に曲がるとすぐに葉室山浄住寺が右側にある。
左右に民家が迫っているものの、本堂に至る参道が心地よい。

浄住寺

浄住寺


本堂を覗くといかにも黄檗宗らしい中国的な雰囲気があるが、これまで見てきた黄檗宗寺院に比べると簡素に思われる。

浄住寺

浄住寺


庫裏


浄住寺

浄住寺


 

これらのお地蔵さん(や大日如来も?)はこの近辺の路傍にあったものを集めたものだろうか?。


浄住寺

浄住寺


浄住寺

浄住寺


 浄住寺は、上の説明のように『太平記』巻第八「谷堂炎上事」に又淨住寺ト申ハ、戒法流布ノ地、律宗作業ノ砌也。釋尊御入滅ノ刻、金棺未閉時、捷疾鬼ト云鬼神、潛ニ雙林ノ下ニ近付テ、御牙ヲ一引テ是ヲ取ル。四衆ノ佛弟子驚見テ、是ヲ留メントシ給ヒケルニ、片時ガ間ニ四萬由旬ヲ飛越テ、須弥ノ半四天王ヘ逃上ル。韋駄天追攻奪取、是ヲ得テ其後漢土ノ道宣律師ニ被與。自尓以來相承シテ我朝ニ渡シヲ、嵯峨天皇御宇ニ始テ此寺ニ被奉安置。偉哉大聖世尊滅後二千三百餘年ノ已後、佛肉猶留テ廣ク天下ニ流布スル事普シ。という記述がある。
 この釈迦入滅後、捷疾鬼しようしつき(いかにも足が速そうな名前)が釈迦の歯を盗んで飛び去ったが韋駄天が取り返したという話は、その後日談(再度、盗もうとするが、再び韋駄天に追いかけられる。)が、泉涌寺を舞台とする能『舎利』になっているので知られている(はずだ?)が、韋駄天は取り戻した歯を道宣律師に渡し、それが日本に伝わり嵯峨天皇がこの寺(常住寺)に納めたという事になっている。それが薬子の変があった弘仁元年(810)で開山は円仁とされている。ただ、円仁は延暦十三年(794)の生まれとされているので、ちょっと無理な伝承。
 弘長元年(1261)権中納言だった葉室定嗣(承元二年(1208)~文永九年(1272))が出家し、奈良西大寺の叡尊を中興の開山とし浄住寺として再興、律宗の京都に於ける拠点となった。葉室定嗣は真言律宗に帰依した恐らく最初の公卿で、以降、葉室家の菩提寺ともなった。
 正慶二年(1333)四月、敗走する千種頭中将の軍を追う六波羅探題の軍が乱入し焼失した。『太平記』巻第八の「谷堂炎上事」に「千種頭中将は西山の陣を落給ひぬと聞へしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て、仏閣神殿を打破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運取て後、在家に火を懸たれば、時節魔風烈く吹て、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て、仏像・神体・経論・聖教、忽に寂滅の煙と立上る。」とある。
 更に、巻第三十二の「無剣璽御即位無例事付院御所炎上事」には、文和二年(1353)二月四日「仏閣霊験の地には、法城寺・法勝寺・長楽寺・清水寺六僧房・双林寺・講堂・慶愛寺・北霊山・西福寺・宇治宝蔵・浄住寺・六波羅の地蔵堂・紫野の寺・東福寺・雪村の塔頭大龍庵・夢窓国師の建られし天竜寺に至るまで、禅院・律院・御祈祷所、三十余箇所の仏閣も皆此時に焼にけり。」とある。これは「俄に矢火出来て院御所持明院殿焼にけり。回禄は天災にて尋常有事なれ共、近年打続き京中の堂社・宮殿残少く焼失ぬる事直事とも不覚、只法滅の因縁王城の衰微とぞ見へたりける。」と、失火で御所の持明院殿が焼けたが、近年は回禄=火災が多くて「法滅の因縁王城の衰微」の兆候だろうと書かれており、浄住寺もその頃に火災に遭っていると見られる。
 応仁・文明の乱でも戦火に遭い、永禄十年(1567)に全焼した。 貞享四年(1687)葉室頼孝により、鉄牛道機(寛永五年(1628)?~元禄十三年(1700))という、萬福寺などの造営に力のあった黄檗宗の禅僧を中興開山として再興され、黄檗宗寺院となった。 元禄二年(1689)葉室孝重再興説もあるようだ。

浄住寺

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左の説明は、葉室定嗣、叡尊のところから始まっている。
それ以前は伝承として省略しているようだ。