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法華山寺跡

 法華山寺は鎌倉時代に照日上人慶政により創建されたが南北朝の戦乱で荒廃した。その後、同じ場所に木沢長政(1493年?~1542年)という武将によって峰ヶ堂城が築かれた。従って、山城の曲輪跡はわかりそうだが廃寺跡を探るのは難しそうだ。

 宮内庁書陵部蔵の慶政自筆『法華山寺縁起』草稿があり、「首部を欠くが、結構の一部、諸仏像、経典、法花三昧堂他、各々の由緒・安置にいたる経緯等を詳細に記し、寺の立地の様子や瑞相、建立の主旨を記し本文を終えている。巻末には「奇事条々」として五条の奇談を書き加えている。」(僧慶政関係資料 渡宋記・法華山寺縁起
『拾遺都名所図会』峯堂、谷堂
旧跡は葉室下山田の西山上にあり、法華山寺と号して延朗上人の開基なり。いにしへは仏閣巍々として、四十九院、十二の楼閣、五重の塔、三間四面の輪蔵等あり。光厳院御宇正慶元年四月九日、千種頭中将の軍火に罹て灰燼となる。其後小堂をいとなむといへども、野火の為に亡滅す、委は太平記に見へたり。今下山田の南面の川上、方二町ばかりの所、瓦石銅鉄の具土中より出るといふ。峯堂の本尊薬師仏は、今下山田の内小堂に安置す、尊像所く焼損ず。谷堂の本尊十一面千手観音は今下津林村に安置す
とある。
 「委は太平記に見へたり。」と書いてあるが、『太平記』巻第八「主上自令修金輪法給事付千種殿京合戦事」に「四月二日、宮、篠村を御立有て、西山の峯堂を御陣に被召、相従ふ軍勢二十万騎、谷堂・葉室・衣笠・万石大路・松尾・桂里に居余て、半は野宿に充満たり。」、同巻第八「谷堂炎上事」に「千種頭中将は西山の陣を落給ひぬと聞へしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て、仏閣神殿を打破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運取て後、在家に火を懸たれば、時節魔風烈く吹て、浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て、仏像・神体・経論・聖教、忽に寂滅の煙と立上る。彼谷堂と申は八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人造立の霊地也。」とある。
 ここには法華山寺の名はない。「谷の堂・峰の堂已下浄住寺・松の尾・万石大路・葉室・衣笠に乱入て」の「峰の堂」が法華山寺という事だろう。「峰の堂の所在地は、現在の京都市西京区御陵峰ケ堂で遺跡の位置と一致している。しかし、次に「浄住寺・最福寺・葉室・衣笠・三尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼と成て」とあり、「峰の堂」は「灰燼と成」ってしまったわけではなさそうだ。
 『太平記』の記述では、「峰の堂」は「法華山寺と号して延朗上人の開基なり。」とし、慶政ではなく延朗の開基としている。この点については、『塵添嚢鈔』という室町時代に書かれた一種の辞書に、「谷峯両寺共ニ延朗上人興行ノ所也。(中略)或云、峯堂ヲハ延朗弟子照日上人建立ト云云。延朗上人ノ為基所被造ト云リ。法華山寺ト云是也。」という記述があるという(『慶政と園城寺―慶政『三井寺興乗院等事』『大師御作霊像日記』を読む―』柴佳世乃・戸波智子 2010年)。ここで慶政は延朗の弟子とされているが、これは両者の生没年や園城寺の関係から本当だろう。
 延朗(大治五年(1130)~承元二年(1208))は上記『太平記』巻第八「谷堂炎上事」の続きに「此上人幼稚の昔より、武略累代の家を離れ、偏に寂寞無人の室をと給し後、戒定慧の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神坐列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法手を束て奉仕し給ふ。かゝる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流清く、法燈光明也。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。奇樹怪石の池上には、都卒の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干珠玉天に捧げ、五重の塔婆金銀月を引く。恰も極楽浄土の七宝荘厳の有様も、角やと覚る許也。」とある。「八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫」という源氏の血統の人。
 谷堂は最福寺を指していると理解される。『拾遺都名所図会』の同じページに、
最福寺〔松尾の南、松室村にあり。浄土宗にして、本尊は阿弥陀仏を安置す。当寺は安元二年(1176)に、延朗上人の開基なり、久しく荒廃に及びしを再興して移し建つる所なり。延朗上人の像当寺に安置す、坐像三尺余にして、上人在世の時仏工に命じてこのんで作らしむる所なり〕
とある。「移し建つる所」が現在の谷ヶ堂最福寺の辺りを指すとするのが妥当な解釈だろう。現在の最福寺の少し西にある鈴虫寺と呼ばれる華厳寺がある場所は(も?)最福寺の一部であったらしい。
 「『拾遺都名所図会』は『都名所図会』の後編として天明七年(1787)秋に刊行されたもので、前編と同じく本文は京都の俳諧師秋里籬島が著し、図版は大坂の絵師竹原春朝斎が描いた墨摺五冊本である。なお、本データベースに用いた『拾遺都名所図会』は大坂の書林河内屋から天明七年秋に板行された新版で、江戸でも同時に刊行されたものである。」(国際日本文化研究センターの平安京都名所図会データベースより)


東桂坂のバス停を北に行き、東海道自然歩道に入ると下り坂で、このまま下ってしまってよいのかと不安になる。

法華山寺跡

法華山寺跡


東海道自然歩道から離れて、参道だったらしき道を上る。

法華山寺跡

法華山寺跡

遺構らしきものとしては、左手の高台の崖に石組がある程度。

間伐ではなく、野外コンサート会場を造ろうとしているようだ。


法華山寺跡

法華山寺跡


平地の広さから考えて、ここに法華山寺の本堂があったと考えてよさそうだ。法華山寺は慶政が嘉禄元年(1225)に着手し、『法華山寺縁起』の草案を著した2年後に完成したらしい。
それ以前の延朗の時代の事はわからないが、上に引用した『拾遺都名所図会』に書かれているように、「正慶元年四月九日、千種頭中将の軍火に罹て灰燼となる。」とすると、嘉禄三年(1227)から正慶元年(1332)の105年間しか存在していなかったことになる。

法華山寺跡

法華山寺跡


一段低い削平地は曲輪跡だろう。土塁のような盛土で囲った山城の姿が残っている。

法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


南側の高台上部には建物があったらしく一段高い長方形の土盛りがある。

法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


削平地のすぐ裏を唐櫃越(からとごえ)の道が通っている。この道は西は亀岡市篠町山本(山陰線馬堀駅の東南東)まで続いているそうで、東は上桂の山田葉室町の方に出る。ここに城が作られたのは、この唐櫃越を押さえ、南の山陰道を見下ろすという位置だからだろう。

法華山寺跡

法華山寺跡


東海道自然歩道を歩くと下ってしまうので、その少し上を通っている唐櫃越へ上がり、東の上桂を目指す。

法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


主に右手(南側)に削平地が何ヶ所もあるが、手入れされた竹林ではないところで石仏が転がっているあたりは寺院の跡なのだろう。

法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


この一帯は城址があった削平地よりも若干狭いかもしれないが、石仏と石組が残っている。

法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


筍をとる竹林と遺跡が紛らわしい状態。

法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


法華山寺跡

法華山寺跡


桜谷墓地からの眺望

法華山寺跡

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法華山寺跡

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法華山寺跡

法華山寺跡


下った先は、よく見知ったところだった。
左 浄住寺
右 地蔵院

法華山寺跡


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