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大雄山最乗寺 (2)

2012年4月

一擲石、金剛水堂

開山堂左手にある一擲(いってき)。妙覚道了の伝承の一つ。寺を建設中、開祖了庵慧明が「道了、道了」と呼んだら、持っていた大石巨岩を立ちどころに捨て、走って禅師の下に至り用務を済ませた。その時捨てた岩がこれだという。

一擲石

一擲石


金剛水堂

金剛水堂とその左の鐘鼓楼にまつわる妙覚道了の伝承はこの寺の見どころの重要な部分と言える。


金剛水堂

金剛水堂


鐘楼。特になんの説明も書いていないのだけど、鐘楼にこれだけの彫刻があるのは珍しい。

鐘楼

鐘楼


松平大和守直基の墓。開山堂の左側崖下にあったものが、いつしか現在地へ移された。

松平大和守直基の墓

松平大和守直基の墓


多宝塔、不動堂

多宝塔
幕末の1863年建立なのに「神奈川県下で唯一の多宝塔遺構」とは寂しい感じがするが、たいていは真言宗や天台宗の寺院にあるもので、禅宗系のお寺で見ること自体が珍しい。

多宝塔

多宝塔


小さくて見えにくいが、一層目の蛙股(各面に3つずつ)には干支が彫ってある。

多宝塔

多宝塔


多宝塔右側には、巨大鰐口が下げられている。

多宝塔に祀られているのは大日如来が多いが、法華経的にはここのように多宝如来が正しいのかも。妙法蓮華経二十八品の第十一見宝塔品では"爾時仏前 有七宝塔 高五百由旬 縦広二百 五十由旬 従地涌出 住在空中"…"爾時多宝仏 於宝塔中 分半座与釈迦牟尼仏"とスペクタクルなシーンが語られている。


多宝塔

多宝塔


二層目の扉が開いている。上部には龍の彫り物も。


多宝塔

多宝塔


不動堂。清瀧不動尊はお寺のパンフレットによると明治初年木曽の御嶽より勧請。

不動堂

不動堂


三面大黒天

結界門

三面大黒天。本堂と開山堂の間にあったが、旧大悲閣跡地に移転。


結界門

三面大黒天


三面大黒天

三面大黒天


お堂の前には打出の小槌が並んでいる。

この大黒様は、飯沢(南足柄市飯沢:大雄山駅の南西あたり)明神、矢倉(南足柄市矢倉沢:最乗寺の北北西)明神、箱根権現を一体にしたもので、この寺の鎮守の神様。


三面大黒天

三面大黒天


御真殿

御真殿への石段。

御真殿(妙覚宝殿)。実質的にこの寺の中心の建物。


御真殿

御真殿


 

ここにも巨大鰐口が。


御真殿

御真殿


妙覚道了みょうかくどうりょうは、生没年他は不明。了庵慧明よりも若いとしても、南北朝・室町時代の人。
この妙覚道了についてどこかで調べた記憶があったが、南郷(滋賀県)の立木観音・安養寺の奥の院に道了権現大菩薩が祀られていたのを思い出した。
しかし、普通は開山の師などを祀っている「奥の院」に、何故、立木観音では道了尊が祀られているのだろうか?。
相模国の寺の伝承が近江国に伝わって祀られているのは不思議な感じがするが、道了尊を祀った寺が大阪にもあった。
豊中の東光院は行基開山という古刹だが道了堂に道了大権現が祀られている。これは天正18年(1590)年、豊臣秀吉公が小田原征伐の陣中にて夢告を受け、「両翼脱落」の奇瑞を得たことから、遠く大阪の発展を願って大雄山最乗寺より勧請されました。(http://www.haginotera.or.jp/outline/principal_douryoudaigongen.php)という由緒。
「両翼脱落」は1675年(延宝3年)に道了権現の影像の両羽が落ちたという「御羽根落ち」の話もある。羽根がなくなるというのは天狗から菩薩になった(もともと十一面観音が本地であれば当然の話に思えるが…)という解釈だろうか?。

御真殿

御真殿

御真殿


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奥の院

この冠木門(かぶきもん)の方が結界門という雰囲気がよく出ている。

奥の院

奥の院


奥の院

奥の院


妙覚道了は十一面観音が垂迹された道了大権現として信仰された。ここは本地の十一面観音を祀る。

奥の院

奥の院


奥の院

横から見ると、内陣なのか内々陣なのか一番奥はコンクリート造りのようだ。
下りの道は指示どおりに行くと慧春尼堂・駐車場へと下ってしまうが、ここは石段を降りる事にした。


開祖廟、慧春尼堂

開祖廟は1972年に造られたもの。建物の背後にある石塔には多くの名が彫ってある。輪住制で住職を務めた人の名前らしい。

開祖廟

開祖廟


慧春尼堂。1972年再建。

慧春尼堂

慧春尼堂

慧春尼(えしゅんに)は開祖了庵慧明(りょうあんえみょう)の妹で、色々興味本位的な逸話も残っているが、最乗寺は女人禁制だったはずで、麓に三つの庵(尼寺)を建立し、女性を対象に布教していたようだ。しかし、何と言っても凄まじいのは三門の前に薪を積んで火定したというその最期。要するに焼身自殺で、何故そのような行動に出たのかは、この話を載せている日本洞上聯灯録にも書いていないようだ。


1967年正月の大雄山

1967年正月の大雄山。
この当時は現在よりもずっと天狗の存在感が強かった印象がある。
しかしこれはどこを撮っているのだろう?


参考史料:
  • 国立国会図書館のデジタル化資料「大雄山鎮護妙覚道了大薩●御縁起」
  • 国立国会図書館のデジタル化資料「日本洞上聯燈録」
  • 「大雄山誌論考」足柄史談会「史談足柄」抜冊(大雄ブックス3)大雄山最乗寺発行