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明王院から明王堂へ(比叡山縦走)

2012年6月ほか

北の明王院は左の地図で見ても延暦寺から随分離れている事がわかる。かつては更に比良山系の北部まで点々とお堂や行場があったはずだ。
明王堂は坂本ケーブルの「ケーブル延暦寺」駅から南に下ったところで、ここらが南限といったところ。
あまり南に手を出すと、園城寺の勢力圏とぶつかる危険性もあっただろう。
明王院と明王堂は「天台南山無動寺建立和尚伝」という本によると回峰行の始祖という相応(831年~918年)が開いたという事で共通している。相応は慈覚大師円仁の弟子で、円仁から不動明王法という密教の修法を伝授されたという。


葛川息障明王院

葛川息障明王院

出町柳から朽木学校前行きのバスに乗って、坊村(ぼうむら)で下車。
東側へ道を渡って明王院への道を歩くと、右手は比良山荘、突き当りの地主神社は葛川地区の総氏神で国常立命と思古淵明神を祭神とし、また明王院の鎮守社。
Myo-oh-in is not a hospital. It's a Buddhist temple.


地主神社の前で、看板に従って左折。


葛川息障明王院

葛川息障明王院


朱塗りの三宝橋を渡る。


葛川息障明王院

葛川息障明王院


葛川息障明王院

太鼓まわしは夏安居(げあんご)の中日の7月18日夜に行われる行事で、開基相応の故事にちなんで、行者が太鼓に飛び乗り、飛び降りる。
飛び上がり、飛び下ると言っても、吉野天人のキリとはまるで雰囲気が違う迫力のある行事のようだ。
相応は下に写真がある三の滝で7日間の修行をしていて不動明王を感得し、抱きつこうと滝壺に飛び込んだら桂の木だったので、その木で千手観音を彫って祀ったのが明王院-というのは鎌倉時代に書かれたという『葛川縁起』の話。これは、『愚管抄』の著者として知られる慈圓が葛川の聖域としての権威付けのために書いたのではないかという説がある。葛川と南の伊香立が境界・権益の相論を何度も引き起こしている事を記した史料は多い。天台座主として権益確保のために慈圓が書いたというのは、十分にあり得る話。
従って、なんで不動明王を彫らないで観音像を彫ったのか-なんて突っ込んでも、「葛川明王院の本尊。中尊千手観音像は漆箔仕上げ、不動・毘沙門は彩色に截金をほどこす像で、作風にも若干の相違が認められるが、制作期はいずれも12世紀と考えられる。明王院は平安時代前期の僧相応によって開かれたが、当初の本尊は不動明王であったはずで、本三尊像がいついかなる理由で本尊とされるにいたったかは不明というほかない。ただし不動・毘沙門を脇侍とする三尊構成は天台宗にはしばしば見られる。(http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/data/bz_164.html)」ということ。


橋を渡って左側に政所表門。
ここでは一番古い建物らしい。

政所。納経はこちらへ。


葛川息障明王院

葛川息障明王院


道の向かい(南側)には護摩堂と庵室、一段高い所に本堂があります。

葛川息障明王院

葛川息障明王院


護摩堂。1755年(宝暦5年)の築。
(http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/data/bz_4.html)


葛川息障明王院

葛川息障明王院


 

本堂は1715年(正徳五年)の築。
(http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/bunka/data/bz_4.html)


葛川息障明王院

葛川息障明王院


葛川息障明王院

葛川息障明王院


この説明では、9世紀に相応が千手観音、不動明王、毘沙門天を刻んだということになっている。
2012年9月に東京の三井記念美術館の「近江路の神と仏名宝展」で千手観音立像だけは見ることができた。頭に十一面付きの千手観音で、表面の金が残っていることもあって修行の場の本尊としては華麗な印象だった。

葛川息障明王院

葛川息障明王院


厨子の右側には「弁財天女」。

左側はよく見えない。


葛川息障明王院

葛川息障明王院


葛川息障明王院

葛川息障明王院


「頼玄」、「穂積」、「八金剛童子」と並んでいる。
頼玄は他所から来た人だが明王院の復興に尽くし南の伊香立との境界争いにも貢献したので社に祀られたという。穂積とは誰だろう?

 


葛川息障明王院

葛川息障明王院


葛川息障明王院

葛川息障明王院


五輪塔

 


葛川息障明王院

葛川息障明王院


 

本堂の南側の屋根の作りが面白い。


葛川息障明王院

葛川息障明王院


 

庵室。
大津市歴史博物館のサイトの説明では、棟札から1834年(天保5年)の築という。


葛川息障明王院

葛川息障明王院


地主神社

葛川地主神社

この神社は、左の案内板には「思古淵大明神を祀る」と書いてあるが、国常立命(くにのとこたちのみこと)、つまり日本書紀では最初に出現したという男神が現在の主祭神なのかもしれない。と言うのは、二つ下の写真のように、思古淵明神は本殿の後ろの社に祀られているから。
相応が明王院の鎮守社として創建したという事になっているが、葛川地区の氏神と考えたほうがよさそうだ。
春日造とは、妻入りの切妻造で、反りあがった屋根(照り屋根)、向拝付きといった特徴を持つ様式。
正面から見て、建物の左右の隅の柱と柱の間に柱がないのが一間で、この一間社春日造が普通。三間(左右隅の柱の間に柱が2本)のものを三間社春日造という。


葛川地主神社

葛川地主神社


本殿は三間の春日造り。
その左後には、思古淵明神、山神社、大行事社と並ぶ。思古淵明神については朽木も参照ください。日吉大社の東本宮にある大物忌神社が大行事社らしい。

葛川地主神社

葛川地主神社


葛川地主神社

この石造の宝塔は、明王院との密接な関係を伝えているように思える。


三の滝へ

葛川三の滝

道標の「右明王谷林道」の方向に進む。


葛川三の滝

葛川三の滝


葛川三の滝


葛川三の滝

葛川三の滝


 


葛川三の滝

回峰行、北嶺修験は、比叡山第三代座主慈覚大師円仁の弟子の相応和尚が創始者とされる。


葛川息障明王院


明王院の絵馬

葛川息障明王院

葛川息障明王院

 

狂言にもある『首引』だろう。
源為朝と鬼が首引きをしている様。


葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院

葛川息障明王院