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東福寺(1)

三門

三門
楼上は時々公開されて上がれるが、須弥壇に宝冠釈迦如来、十六羅漢像などが安置されている。東福寺の僧であった吉山明兆が描いたという天井、欄間の彫り物や柱の彩色などが鮮やか。知恩院三門楼上と似ているが、時代的にはこちらは室町時代のものなので先輩格。


本堂

仏堂
明治十四年(1881年)に焼失し、大正六年(1917年)に始まり昭和九年(1934年)に完成したという大工事で再建された。三門と共に南の勅使門から見た威容は圧倒的。本尊は釈迦如来立像。
3月の涅槃会では、本尊の前に涅槃図が掛けられ内部が公開される。


五社成就宮:東福寺の鎮守社として、石清水、賀茂、稲荷、春日、日吉の五社神を祀るので五社明神社ともいいます
(http://www.tofukuji.jp/keidai/joju.html)
東福寺が建立される前にこの地にあった法性寺の鎮守社であり、それを東福寺が引き継いだ。
この一帯には、延長ニ年(924年)に藤原忠平が建てた法性寺があった。嘉禎二年(1236年)、摂政で藤氏長者になった九条道家が、その中に高さが五丈の巨大な釈迦如来像を建立することにした。寺号は、東大寺、興福寺から一字ずつ取って「東福寺」としたという。建長七年(1255年)に完成した。


成就宮

成就宮


成就宮

成就宮


成就宮

成就宮


五社成就宮の向かって左手前に十三重石塔がある。『東福寺伽藍図』では「比良明神塔」とされているらしい。(出典:比良古人霊託解説 新日本古典文学体系40)
康永二年(1343年)の銘があるそうだが…読み取れない。この十三重の石塔は、慶政が書いた『比良山古人霊託』によると、
東福寺を建立する際に、この地の惣領主だという比良山の天狗が現れた。寺院を建立させてもらう見返りに、位階、名を提供すると申し入れたが、天狗はいらないと辞退した。そこで、慶政が「法花経(法華経)と浄土三部経を金泥で写経し、一丈六尺の十三重石塔を造立する。(又択定其地。造立十三重之一丈六尺石塔。可被廻向也。石塔是不朽之功徳。)」と約束して建てたもの。
ただ、1343年では時代的に遅すぎると「比良古人霊託解説」で指摘されている。まあ、東福寺が一通り完成したのは更に10年以上後だから、ご勘弁を…なんて代わりに弁解してもしょうがないか。


十三重石塔

十三重石塔


十三重石塔の背後には二つの社がある。向かって右側が「魔王石」。「魔王」は鞍馬の例(これはこれでややこしいが)でも推察されるように天狗のこと。
上記『新日本古典文学体系40』の「比良古人霊託解説」にも書いてあるが、この場所は『比良山古人霊託』との関連で興味深い。
慶政(文治五年(1189年)~文永五年(1268年)11月11日)は、九条良経の子で、東福寺を建てた九条道家の兄と書いた文献も有る。幼少時に乳母が取り落とし後遺症が残ったため仏門に入ったという(猪熊本『比良山古人霊託勘注』)。『新日本古典文学体系40』が依っている『比良山古人霊託』宮内庁書陵部蔵本には「大織冠御親類」とか「鎌足御親類」と書かれていて、慶政が藤原氏ー九条家の生まれであったことを物語っている。
また、山川均『石造物が語る中世職能集団』(山川出版社 2006)では、慶政が渡宋時に宝篋印塔が残る泉州の開元寺に滞在していたので、宝篋印塔を日本に紹介したのは慶政ではないかという意見を出している。


慶政の略歴

西暦   和暦    出来事
1189年文治五年出生
????年??????年幼少時、乳母が取り落とし後遺症が残った。
????年??????年出家。園城寺の能舜、慶範、延朗、行慈に師事。
1208年承元二年西山に隠棲。
1216年建保四年『閑居友』上巻第三話を執筆。
1217年建保五年渡宋。翌年帰国
1229年寛喜元年1082年(永保二年)に入宋した戒覚が著した『渡宋記』を書写。
1222年承久四年『閑居友』完成。
1225年嘉禄元年法華山寺創建に着手。
1227年嘉禄三年『法華山寺縁起』(草稿)を著す。法華山寺はこの頃完成か。
1232年寛喜四年明恵上人の百ヶ日供養の導師を務める。
1235年文暦二年九条道家の息、摂政教実の臨終作法を行う。
1239年延応元年九条道家の病気の祈祷を行い『比良山古人霊託』を著す。
1244年寛元二年『漂到琉球国記』を聞書する。
1263年弘長三年式乾門院利子の十三年忌で法華山寺で唐本一切経供養を行う。
1267年文永四年『金堂本仏修治記』を記す。これは園城寺金堂の弥勒菩薩像修理し慶政が仮本堂に収めたことを書いたもので自筆本が宮内庁書陵部にある。
1268年文永五年入寂(死去)

比良山古人霊託』は慶政が九条道家の病気の祈祷に東福寺を訪れた時、道家に使える21歳の女房に比良山の天狗が憑き、その天狗と三度にわたり問答した内容を記したもの。
ここに登場する天狗の姿は、いわゆる赤い顔の「鼻高天狗」ではなくて、「頭并身如人。其足似鳥。有翅。尾短。鵄ハ我等乗物也。」、つまり「頭と体は人と同じ、足は鳥に似て羽と短い尾がある。鳶に乗って飛行する。」というイメージで、『今昔物語集』巻第二十「震旦天狗智羅永寿渡此朝語第二」を基にした曼殊院蔵の「是害坊絵巻」の天狗の絵と同様ではないかと思われる。比良の天狗は、元は比叡山にいたが、最澄が延暦寺を開いたので北の比良山系に引っ越した、愛宕山の太郎坊に次ぐ「比良山次郎坊」だが、「八大天狗」ができたのはもう少し時代が下がるかもしれない。しかし、ここに出てくる天狗は、「我是聖徳太子御時之者。大織冠已前之仁。謂摂録臣先祖也。此法性寺辺惣領主也。」と言って「藤原氏の祖先で、法性寺(現東福寺)周辺の惣領主である。」と、もちろん山伏ではないし、怨霊とか山ノ神でもない、とても血筋の良い天狗だ。従って「比良山古人」であり「比良明神」なのだろう。これらは、この時代の天狗の性格・意味付けを反映しているようで興味深い。そして、慶政の問いに答えて、修行のあり方、当時の有力者の死後や寿命、天狗の世界のことなどを教えてくれる。これらは慶政の個人的な悩み、疑問を反映しているのだろう。主だったものを主観的に並べてみる。


  • 功徳には軽重は無い。ただ、誠があることが貴い。
  • 『問』藻璧門院(道家の娘。後堀河天皇の中宮、四条天皇の母。)はどこに生まれ変わったか。
    『答』蓮台野にいる。天台座主になれなかったので道家を怨んで死んだ十楽院僧正仁慶と同じ。
  • 『問』藻璧門院は随分仏事を修されたが、役にたっていないのか。
    『答』仏事を修したといっても、真実の心がない。皆、名目だけだ。だから死ぬ時のご縁にはならない。
  • 『問』天狗は妻子を持つのか。『答』皆、持つ。
  • 『問』どんな人が天狗道に入るのか。『答』驕慢な心、執着心が強い人。
  • 『問』明恵はどこに生まれ変わったか。『答』都率天の内院にいる。
  • 『問』法然はどこに生まれ変わったか。『答』無間地獄に堕ちた。

こうしてみると、この天狗は、謙遜もあってか、それほど優秀ではないふりを装っている?が、極めて真面目な修行僧のようで、微笑ましくさえ感じられる。ただし、藻璧門院や、法然、親鸞の弟子と思われる僧達の死後についての発言内容には、かなり辛らつなものもある。
これは慶政が自分の意見の代弁者として天狗を利用したと考える事ができそうだ。また、『比良山古人霊託』が書かれた1239年頃といえば、天福二年(1234年)に幕府が専修念仏禁止して5年という時期になる(その前には、元仁一年(1224年)に禁止されている。)。浄土宗と専修念仏が天台宗や藤原氏などの既成権力からどの様に見られていたかを示しているとも言える。

魔王石は、覗いて見ても文字や線刻の絵があるとかいう感じのものではなかった。

魔王石

魔王石


向かって左側の社には石仏。

石仏

石仏


最勝金剛院

最勝金剛院は、九条家の墓の管理のために昭和四十六年(1971年)に再興された。
最勝金剛院の墓地の奥に八角円堂。中には九条兼実(1149年~1207年)の墓がある。八角円堂と周囲の墓が、かつての九条家の墓とされているらしい。
摂政、関白、太政大臣になった九条兼実は『玉葉』という日記で有名な人物。『玉葉』は、ちょうど源頼朝が挙兵し、平家を倒し、鎌倉幕府を開く治承・寿永の乱の時期の日記で、脚色が多い『平家物語』よりも史実に近い史料として貴重。
当初の最勝金剛院は、東福寺以前の法性寺の中で最大の塔頭だった。

最勝金剛院

最勝金剛院八角円堂


最勝金剛院

最勝金剛院


最勝金剛院

最勝金剛院


同聚院

同聚院

同聚院


同聚院

東福寺が造営される前にこの地にあった法性寺の五大力尊の内、現存しているのがここの不動明王像。定朝の父、康尚作とされる。丈六の大きさで一木造りだという。座っているので丈六といっても八尺(約2.4m)だが、光背の炎が天井にぶつかりそうなくらいの大きさで迫力がある。写真で見た時は下を見下ろしている感じだったが、実物を拝観すると正面を睨んでいるように見える。眼球を円錐形に突き出すように彫ってあるからのようだ。
堂内の礼堂部分右側には、役行者を中心に左下に弘法大師(空海)、右下に青色の不動明王を描いた軸装された絵が架けられていて、ごく自然なことだが修験道ともつながっているようだ。
上述のように、法性寺は藤原忠平(880年~949年)が924年に建立し、五大堂は藤原道長が建てた。
今、五大力さんというと醍醐寺だろうし、地理的にも寺域は伏見稲荷に接していたから東寺の真言宗の影響があってもよさそうだが、藤原氏建立ということで、最初は興福寺の法相宗だったらしく、その後は天台宗だった。
寺域は東福寺に置き換わってゆき、現在(下を参照)は浄土宗の尼寺となって名を残している。


法性寺

大和大路の東福寺の北門と中門の間にある。京都市の説明のとおりで、潅頂堂の本尊だったと伝えられる国宝の千手観世音菩薩像は上半身がふっくらし、肩幅が広い穏やかな印象の像だ。

法性寺

法性寺