中山道赤坂宿
JRの美濃赤坂駅に着いた時は、ずいぶん鄙びた所だと思ったけれど、間違いでした。
中山道六十九次の江戸から数えて五十六番目の宿という歴史ある土地。
「お嫁入り普請」は、本人の和宮や孝明天皇、徳川家茂などをどう評価するかは棚上げにして、文久元年(1861年)の和宮降嫁というのが、一大イベントだった事を物語っているのは間違いない。
脇本陣跡
左隣に「矢橋グループ本社」と看板が出ているが、矢橋家は赤坂宿の名主だった。
赤坂は、能『烏帽子折』や『熊坂』では熊坂長範の本拠地らしき扱い。『烏帽子折』では「この御腰の物を強ひて参らせ上げければ。力なしとて請け取り我もしも世に出づならば。思ひ知るべしさらばとて商人と伴ひ憂き旅に。やつれはてたる美濃の国赤坂の宿に着きにけり/\。」とお疲れさんの感じで中入。『熊坂』では「山越えて。近江路なれや湖の。/\。粟津の森も見え渡る瀬田の長橋うち過ぎて。野路篠原に夜をこめて朝立つ道の露深き。名こそ青野が原ながら。色づく色か赤坂の里も暮れ行く。日影かな/\。」とワキの僧の歩くスピードは異様に速い。また、次の垂井宿との間には、能の『朝長』を思い出させる東山道の青墓宿があった。
上の説明にあるように、本陣そばの交差点は、中山道から北へ谷汲、南へ(養老の滝、多度大社)伊勢への分岐点で、その道標が立っている。
この四つ角を右に曲がると谷汲巡礼街道、左に曲がると養老街道。
本陣跡
西濃鉄道は貨物専用線。すぐ南に赤坂本町駅があった。
中山道の踏み切り遮断機は今では珍しい「昇開式」という上下する形式。
お茶屋屋敷
徳川家康が整備させた将軍家専用の宿泊施設。
周囲三方は土塁・空濠で囲われている。
残り一辺、西隣の赤坂中学校も元々はお茶屋屋敷の敷地だった。
紫雲山安楽寺
推古天皇元年(593年)、聖徳太子の創建という伝承がある現在は浄土宗の寺。推古天皇元年( 593)聖徳太子の創建、壬申の乱で、大海人皇子が勝利祈願を住職に命じ、戦勝後天武天皇が、大友皇子の冥福を祈り宝物を寄進されたという古刹
。(http://www.akasaka-ogaki.jp/i/kankou/anraku.htm)
左下の説明にあるように、関ヶ原の合戦の時、西軍の大谷吉継の陣鐘を、徳川家康が寄進したもの。この寺のある山は、岡山と言ったが、関ヶ原の合戦の時に家康の赤坂本陣となったところで、戦いの勝利の後、勝山と改名された。
駅から見た金生山。これから、この山の上の明星輪寺を目指します。
子安神社
八王子神社
弘法寺
金生山への道沿いにあるおびただしい石仏は弘法寺の境内になっているらしい。この土地の歴史の深さを感じさせる。
金生山神社
神仏分離で明星輪寺から切り離されてしまった神社。