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萬年山天寧寺

2013年5月

天寧寺

天寧寺


文化八年(1811年)、彦根藩第11代藩主井伊直中(なおなか)が建立した曹洞宗の寺院(この時点では本堂のみ)。
彦根駅東口から外町交差点を少し南東に上がった里根山中腹にある。
庭園は石州流と言われる。昔は萩やツツジで有名だったらしい。西国の十六大名から寄進されたと伝わる十六羅漢石像が池の向う側斜面に置かれている。仏殿の木造五百羅漢像は京都の駒井朝運の作。本堂の本尊は、現在、国の天然記念物になっているハナノキで造られた聖観世音菩薩で、湖東に多い聖徳太子信仰の例に漏れず、聖徳太子が刻んだものとされている。これらは秋に公開されている。井伊直弼の供養塔には、直弼の血染めの土が四斗樽四つ分埋められているという。そばには直弼の側近だった長野主膳(しゅぜん)(文化十二年(1815年)~文久二年(1862年))の墓(明治時代に造られたもの。)もある。
天寧寺の前身寺院は、初代彦根藩主井伊直政が実母の供養のために建てた宗徳寺である。寺号は生母の戒名からとられた。彦根藩11代藩主直中の時、槻御殿で奥女中若竹が妊娠したが、相手が誰だか口を割らなかった。結局、若竹は切られた(直中の手討ちというのは脚色臭い)。その後、相手は直中の長男直清と判り直中は若竹とその子の供養のために、(東京)世田谷の豪徳寺から清涼寺へ招いた寂室堅光を天寧寺の開基とし、その助言で京都の大仏師・駒井朝運に五百羅漢の製作を依頼した。なお、天寧寺の寺号は井伊直中の法名「観徳院殿天寧宏輝大居士」による。


仏殿(五百羅漢堂)

仏殿は、曹洞宗の寺院なので禅宗様だが、黄檗様の特徴が見られる興味深い建物。

天寧寺


天寧寺

天寧寺


天寧寺

天寧寺


天寧寺


一番さん。

五百番さん。


天寧寺

天寧寺


内部虹梁(こうりょう)の絵様

10月下旬に大杓子奉納の行事が行われる。


天寧寺

天寧寺


木鼻と扇垂木

天寧寺

天寧寺


天寧寺

方形の礎盤や裳階(もこし)下の吹き抜けなど、黄蘗様の影響が感じられる。もっとも吹き抜けにしたのは昭和五十八年(1983年)で、それ以前は普通の禅宗寺院のように裳階柱の間に壁があったという。


昔は本堂と回廊で結ばれ、ここに扉があったという。

天寧寺

天寧寺


仏殿裏側、須弥壇の下には大きな布袋さん。

天寧寺

天寧寺


仏殿と本堂の間の、羅漢石庭。

天寧寺

天寧寺


本堂

正面から見ると、外壁を取り替えたために一見新しそうに見えるが、文化八年に天寧寺で最初に建てられた建物。

本堂から見た仏殿の裏側。


天寧寺

天寧寺


天寧寺

天寧寺


彦根城と向き合ったような眺望

天寧寺

天寧寺


井伊直弼供養塔(宝篋印塔)

長野主膳の墓


井伊直弼は安政七年(1860年)に桜田門外の変で暗殺されたが、この供養塔は文久二年(1862年)の文久の改革より前に建立されたのだろう。文久の改革から明治のかなりの間、井伊直弼は尊皇派を弾圧した安政の大獄の責任者として表立って供養するのは難しかったと思われる。

長野主膳は井伊直弼の家臣だった。直弼暗殺後、第16代藩主になった直憲(なおのり)は、尊皇攘夷派の家老岡本半介の意見を入れ、主膳は斬首された。


天寧寺

天寧寺


村山たか女之碑
建立時期不明。井伊直弼、長野主膳と一緒にという事だろう。

「彦根岩組行者堂」
大峰山(山上の蔵王堂)の行者の講の一つらしい。
曹洞宗のここにあるのは何故?


天寧寺

天寧寺


仏足石

 


天寧寺

天寧寺


天寧寺

大東義徹顕彰碑
大東義徹は彦根藩士の子で第1次大隈内閣の司法大臣
日下部鳴鶴という書家の碑文


大東義徹の墓

井伊家の墓。井伊家は現在も続く。


天寧寺

天寧寺


本堂から少し上がったこの墓地の一帯は、お寺のパンフレットには「観徳殿跡」と書いてある。
井伊直中の法名が「観徳院殿天寧宏輝大居士」であるように、観徳殿には直中の像が納められ、御像殿とも呼ばれていたようだ。