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教王護国寺(1)

東寺

東寺道
伏見稲荷大社御旅所(写真左側)前から東を眺める。油小路を渡った左先の巨大な箱型ビルはイオンモール。この先、竹田街道から先は、道が細くなって、鴨川に突き当たって終わる。反対に西に向かって歩くと、大宮通りに面した「慶賀門」に突き当たる。
伏見稲荷大社の「稲荷祭」は、4月下旬最初の日曜日の「神幸祭」で五基のお神輿がトラックに乗ってこの御旅所にやってきて、翌週にに「氏子祭」で氏子の地域を巡幸、5月3日の「還幸祭」でお帰りになる。その帰りにトラックに乗ったお神輿は油小路を下がり九条通りを回って東寺の「慶賀門」で東寺の僧から神供を受ける。


慶賀門

普通の寺院ならば「勅使門」という性格の門のはずだが、観光客の主たる出入口になっている。

東寺

東寺


東大門

説明板によると、「建久九年(1198年)の文覚上人の勧進で再建、建武三年(1336年)足利尊氏が新田義貞に攻められた時に、門を閉じ防いで以来「不開門(あかずのもん)」となっている」という。
足利尊氏は九州から上洛後、「去程に東寺已に院の御所と成しかば 四壁を城郭に構へて 上皇を警固し奉る由にて 将軍も左馬頭も 同く是に篭られける 是は敵山門より遥々と寄来らば 小路/\を遮て 縦横に合戦をせんずる便よかるべしとて 此寺を城郭にはせられけるなり」と、防備を固めていた。そして後醍醐天皇に従って比叡山・東坂本に退いた山門側(後醍醐天皇、新田義貞側)を攻めるが撃退されて、戦いは膠着状態となる。洛中は手薄と思った山門側は攻撃を仕掛けるが足利尊氏は市内に引き寄せて反撃し撃退する。この時、山門側は「遥々と東寺まで寄ればこそ」と東寺に迫ったらしい。北国から来た二條大納言師基の援軍を加え再び山門側は京を東西から攻める作戦を立てるが、密通があり、再び敗北する(『太平記』巻第十六「持明院本院潛幸東寺事」~巻十七「義貞軍事付長年討死事」)。
「義貞の兵二万余騎 東寺の小門前に推寄て 一度に時をどつと作る 義貞坂本を打出し時 先皇居に参て 天下の落居は聖運に任せ候へば 心とする処に候はず 何様今度の軍に於ては 尊氏が篭て候東寺の中へ矢一射入候はでは 帰参るまじきにて候 と申て出たりし其言に不違 敵を一と的場の内に攻寄せたれば 今はかうと大に悦で 旗の陰に馬を打すへ城を睨み 弓杖にすがつて 高らかに宣ひけるは 天下の乱休事無して 無罪人民身を安くせざる事年久し 是国主両統御争とは申ながら 只義貞と尊氏卿との所にあり 纔に一身の大功を立ん為に多くの人を苦しめんより 独身にして戦を決せんと思故に 義貞自此軍門に罷向て候也 それかあらぬか 矢一受て知給へとて 二人張に十三束二臥 飽まで堅めて引しぼり 弦音高く切て放つ 其矢二重に掻たる高櫓の上を越て 将軍の座し給る帷幕の中を 本堂の艮の柱に一ゆり/\て くつまき過てぞ立たりける 将軍是を見給 我此軍を起して鎌倉を立しより 全君を傾け奉んと思ふに非 只義貞に逢ひて 憤を散ぜん為也 き 然れば彼と我と 独身にして戦を決せん事元来悦ぶ所也 其門開け 討て出ん と宣ひけるを 上杉伊豆守 是はいかなる御事にて候ぞ 楚の項羽が漢の高祖に向ひ 独身にして戦んと申しをば 高祖あざ笑て汝を討に刑徒を以てすべしと欺き候はずや 義貞そゞろに深入して 引方のなさに能敵にや遭と ふてゝ仕候を 軽々しく御出ある事や候べき 思も寄ぬ御事に候 とて 鎧の御袖に取付ければ 将軍無力義者の諌に順ふて 忿を押へて坐し給ふ (『太平記』巻第十七「義貞軍事付長年討死事」)」と、新田義貞が東寺の中にいる足利尊氏へ矢を射込んで一騎打ちを求め、尊氏もその気になるが上杉伊豆守に戒められるという、いかにも軍記物の見せ場っぽいシーンが書かれているが、この「東寺の小門」が東大門だったのだろうか?

東寺東大門

東寺東大門


猫の曲がり

東南の角。不浄の地だそうで。だからという訳ではないだろうが、「ここは美化推進強化区域です」と書いてある。
何故、猫なのかは諸説あるようだがわからない。ヒントになりそうなのは、東寺の前の九条通りは豊臣秀吉が造った御土居の南端で油小路九条で曲がって北に伸びていたという事。つまり、ここらは御土居の中の最果ての地の様な場所だっただろう。

東寺

東寺


東寺

東寺


東寺

東寺


南大門

明治二十八年(1895年)に、三十三間堂の西大門を移築したもの。東寺が発行している『大師のみてら東寺』という小冊子に、「七百円で購入」と書いてある。
木鼻の出っ張り方や、懸魚の目立ち方など、桃山時代風の豪壮さが顕著な門だ。

東寺南大門


東寺

東寺南大門


東寺南大門

東寺南大門


蓮花門

西側の門は、西大門と言わずに「蓮花門」という。他の門は重文だが、この門は国宝。
空海が高野山へ向かった時は、この門から旅立ったと言われる。

東寺

東寺


八幡宮

東寺

東寺


東寺

国宝の僧形の八幡神坐像と女神坐像二体は空海作との伝承。


八島社

祭神は大己貴(おほなむち)神、つまり大国主命で、地主神とされている。だが、より興味深いのは、伏見の稲荷との関係。『大師のみてら東寺』には「またお稲荷さんも祀られています。」と書いてある。

東寺

東寺


灌頂院

江戸時代までは宮中で正月八日から行われていた後七日御修法(ごしちにちみしほ)が現在はここで行われている。

東寺

東寺


東寺

東寺


小子坊

小子坊はかつて御影堂にあり、光厳上皇が建武三年(1336年)の建武の乱(延元の乱)の後、ここで政務と執ったと下の説明には書いてある。『皇年代略記』という本の割書には「以灌頂堂為御所」と「灌頂堂」という建物を御所としたと書いている。
これは上の「不開門」と同様に、足利尊氏が九州で態勢を立て直し,湊川の戦いで楠木正成・新田義貞を破り京都に入った後の事。足利尊氏は厳島神社で「持明院殿より被成ける院宣をぞ奉」っているが、それまでの尊氏の行動を正当化するこの義貞打倒の院宣は、尊氏の求めで持明院統の光厳上皇の意思で出されたもの。尊氏が上洛した時、後醍醐天皇は比叡山(東坂本)に逃れるが、同行を求められた光厳上皇一行は、北白川のあたりで急に病気だと言って乗物を岡崎にあった法勝寺の塔の前に止めさせ時間を稼いでから、六条院経由で東寺へ入った。

東寺

東寺


西院

御影堂の不動堂(後堂)

御影堂の礼堂(前堂)


この不動明王像は絶対秘仏だそうだが、国宝。

空海の住房だったが康暦元年(1379年)に焼失した後に再建されたもの。運慶の子・康勝作という弘法大師像が安置されている。


東寺

東寺


東寺

屋根を見てわかるように二棟を繋いだような建物。
康暦元年(1379年)に焼失後、康暦二年(1380年)に不動堂が再建され、礼堂はは明徳元年(1390年)に再建された。
寝殿造りで、廻り縁(簀子)が穏やかな雰囲気を持っている。


廻り縁

前堂と後堂の境


東寺

東寺


東寺


鐘楼

大日堂


足利尊氏寄進の鐘は宝物館にある。

江戸時代に御影堂の礼堂として建てられ、平成十二年(2000年)に立て直された。


東寺

東寺


大黒堂、右隣は安産不動明王

毘沙門堂


大黒天、毘沙門天、吉祥天の三面の大黒天像だそうです。

羅生門の楼上で王城鎮護の兜跋毘沙門天立像を祀るために建てられたが、平成六年(1994年)に改修されている。国宝の兜跋毘沙門天立像は宝物館にあり、現在はその複製?が本尊。


東寺

東寺


 

天降石


 

「天降石」と言うと隕石か?この石を撫でて身体の具合の悪いところに触れると治るという。まさかラジウム温泉のようなものではないでしょうね。


東寺

東寺


尊勝陀羅尼牌

尊勝陀羅尼牌の碑文


願海(文政六年(1823年)~明治六年(1873年))は嘉永六年(1853年)に千日回峰を満行し、この石碑を北野天満宮に建てたが、明治初の神仏分離で東寺に移された。「尊勝」は「尊勝仏頂」の事で、如来の肉髻(にっけい)(頭頂部のお椀をひっくり返したような形に盛り上がっている部分)を仏としたもの。「陀羅尼」とはサンスクリット語のダーラニーの音に漢字を充てたもので、比較的長い呪文のこと。これを繰り返し唱えることで雑念がなくなり禅定の境地に入る。

上部の円の中心から放射状に書かれているのが尊勝陀羅尼の本文だが梵字で読めない。その下に冷泉為恭による雲龍図が線刻で描かれている。下部にはこの牌建立の趣旨が書かれているようだ。「フィールド・ミュージアム京都」に詳しい説明がある。(http://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/mi024.html)


東寺

東寺