湖北の仏
全長寺、安養寺、上丹生薬師堂、洞寿院
湖北へは奈良時代に既に奈良仏教が進出していた可能性が高い。近江国では平安時代に天台宗の寺院が増え、平安末期に琵琶湖周辺は「天台薬師の池」と化す。しかし湖北北部では己高山や菅山寺を筆頭に真言宗の寺院が意外と多い。その後14世紀頃に越前永平寺から曹洞宗が進出してきて真言宗寺院の転宗が進んだ。奈良仏教や天台・真言宗寺院は有力者の庇護の下で荘園などが経済的基盤だったが、平安時代後期からこれら寺領を武士が侵食し始める。地元の豪族・国人層が年貢を徴収する所務代官、代官請を務めたが『太平記』巻二十六「妙吉侍者事付秦始皇帝事」で高師直・師泰が言ったという我被官の者の恩賞をも給り御恩をも拝領して 少所なる由を歎申せば 何を少所と歎給ふ 其近辺に寺社本所の所領あらば 堺を越て知行せよかしと下知す
という部分に寺領を武士が奪ってゆく様子がうかがえる。国人層は後に湖北四家(赤尾氏、雨森氏、磯野氏、井口氏)と言われる勢力となる。そういう情勢下で延暦寺は少しでも自身に有利な(寺領を安堵してくれそうな)武将に付こうとする。「朝倉・浅井」対「織田」という対立構図の時に延暦寺は前者に加担する。それが織田信長の元亀二年(1571)比叡山焼き討ちにつながる。琵琶湖周辺の天台寺院はこの時期に悉く焼き討ちにあっている。当然寺領は武士が押さえてしまっただろう。一方、浄土教系宗派や曹洞宗の一部は一般民衆を組織し、この組織が経済基盤となっていた。その結果、近江の集落の中心には高い屋根で存在を誇示する真宗寺院が建立されたが、焼き討ちされ寺領を失った天台寺院は多くが浄土教へ転宗するか廃寺となった。中には江戸時代に禅宗の僧により禅宗寺院として再興されたものもある。現在も滋賀県全体としては浄土真宗に転じた寺院が多いが、余呉では意外と少ない。
久沢山全長寺
本堂に向かって左側に馬頭観音を祀るお堂がある。この馬頭観音立像はこの寺の北西の別所山にかつてあった別所山万福寺という天台寺院に祀られていたが、寺は後に山麓に下り馬頭観音堂と呼ばれていた。、それも朽ちてここに移された。明治時代の補修で妙に金ピカでお顔も変な感じだが、ご利益は色々あったらしい。寄木造で恵心僧都源信作という伝承がある。
安養寺
右上写真の説明にあるように、この場所は佛国山光勝庵だが、左上写真の十一面観音立蔵は、片岡山安養寺という同じ余呉町国安にある草岡神社の神宮寺だった古義真言宗の寺の本尊だった。明治初めの神仏分離で円通庵というところを経由してこの光勝庵に安置された。光勝庵は全長寺の末寺となっている。
説明にある"木心乾漆造で寄木造"というのがよくわからない。平安時代後期の作風だが制作年代は不明(江戸時代かもしれない)。足裏に銘があるとのことだったのでしかるべき人が調べればわかるはずだが。顔や腕はふくよかで穏やかな印象の仏像だ。
光勝庵のご本尊である釈迦三尊像。
左に「安養寺」、右に「光勝庵」の表札。
薬師堂もある。
上丹生薬師堂
薬師堂と言ってもかつての山車の収蔵庫。建物自体は宝永五年(1708)に建てられた桁行七間、梁間三間の細長い建物。仏堂としては流用だからやむを得ないが、切妻の建物に妻入の入口という形態になっていて、細長い建物の一番奥に厨子がある。
茶わん祭はここらに陶工がいて、陶器を奉納したのが始まりという。10m位の高さの三角に組んだ支柱に人形などを付けた三基の山車が出る。神輿などの行列もなかなか華麗な祭り。
仏像がいっぱいあるが、国の重文になっている薬師如来立像は秘仏で50年に一度しかご開帳されない。墨書銘があり建保三年(1215年)に造られたもの。お前立の坐像は平安時代後期の作と推定される県指定有形文化財。日光・月光菩薩像は応永二十七年(1420)修理銘があり、それ以前の作となる(平安時代後期か)。四天王のうち持国天と多聞天像、更に十二神将像と、かつては真言宗の寺院があったかと思わせる。
お蚕さんの病気封じに絹糸で作った毬と、
子供の歯痛の時に噛ます箸
目耳鼻口の病封じの穴あき石と
女性が病気快復祈願に供えた髪の毛
薬師如来縁起
お経の板木
梁間三間
八幡神社:薬師堂が別当寺だった。
桁行七間
上丹生の野神さん
しかし、祠の後ろに県指定自然記念物の欅らしき木は見当たらない。
塩谷山洞寿院護国禅寺
曹洞宗の禅道場の寺。冬はさぞかし雪が深く寒いだろう。
応永十年(1403)に如仲が開山した。
山号の塩谷山は十一面観音菩薩が本地の白山妙理権現より塩泉を施されたという伝承に由来する。
後で考えたら「湖北の観音」を探訪するつもりで訪れたのに聖観音菩薩像を拝観していない。ご住職のお話の中でも触れておられなかった。
内陣の左側に大日如来など、多くは周辺の真言宗系の寺院から移されたらしい仏像が並んでいて、それらを拝観して帰ってきた。