瑞応山大報恩寺(千本釈迦堂)
北野経王堂願成就寺
本堂に向かって左側にある北野経王堂願成就寺の名残。
元の願成就寺は現在の北野天満宮前交差点の北西角、紙屋川通りの北側の緑地のあたりにあったと思われる。
この一切経は、応永十九年(一四一二)北野経王堂の覚蔵坊増範が発願、勧進僧となり、経王堂において三月十七日から八月十五日に至るおよそ五か月の短期間に書写した勧進一切経である。現存総数は五千四十八帖で、うち当初の応永書写経は四千八百十六帖、室町時代後期の補写経八十二帖、江戸時代補写経百五十帖を併せ存している。書写には東は越後・尾張から、西は肥前・薩摩まで、二十五か国、二百余人の僧俗が参加しており、完成後は北野神社境内の輪蔵に納められた。本経は、北野一切経会あるいは謡曲「輪蔵」で、洛中の人々に親しまれた一切経として知られている(国指定文化財等データベースの解説文)。
12月上旬に、ここの大根焚きが報じられると年末を実感する。
鎌倉時代、安貞元年(1227年)に建てられた本堂は「洛中」最古の建造物と言われる。
但し、東寺の宝蔵は平安時代の建物。
このお寺の霊宝殿にある快慶等による釈迦十大弟子像や(肥後別当)定慶作の木造六観音像が好きなので時々訪れる。同じ慶派だが作風は対照的。しかしどちらも素晴らしい。但し館内は撮影禁止なので、このページに写真はない。寺のWebサイトの「寺宝・文化財」が充実している。
本尊の釈迦如来坐像は行快の作。行快は快慶の弟子。
国宝の本堂内陣の四天柱の彩色がよく残っている。
承久三年(1221年)義空が開山。真言宗智山派(総本山は東山七条の智積院で根来寺の新義真言宗系統)に属する。義空は承安元年(1171年)に生まれで、奥州藤原氏の三代目秀衡の孫だという。(父は誰だろう?三男の藤原忠衡?忠衡の妻は佐藤基治の娘小笹で、薬師如来を信仰し出家して妙幸比丘尼となったという話が『大日本仏教全書本朝高僧伝』に所収の「京兆大報恩寺沙門義空伝」にあるらしいが…未確認です。)
本堂北西にある千体地蔵塔。
霊宝殿で、国の重文で快慶一門作とされる木造十大弟子立像や、肥後別当定慶作と言われる木造六観音菩薩像、北野経王堂のものと伝えられる鼉太鼓縁(だだいこ)等々を見ることができる。