能の古跡との巡り合い(2)
瀬田の唐橋
「勢田」「勢多」などとも書く。
『熊坂』の道行:「山越えて。近江路なれや湖の。/\。粟津の森も見え渡る瀬田の長橋うち過ぎて。野路篠原に夜をこめて朝立つ道の露深き。名こそ青野が原ながら。色づく色か赤坂の里も暮れ行く。日影かな/\。」
『朝長』の道行:「近江路や。瀬田の長橋うちわたり。/\。なほ行くすゑは鏡山。老曽の森を打ち過ぎて。末に伊吹の山風の。不破の関路を過ぎ行き青墓の宿に。着きにけり青墓の宿に着きにけり。」
『田村』:「やがて名にしおふ。関の戸さゝで逢坂の。山を越ゆれば浦波の。粟津の森やかげろふの。石山寺を伏し拝み是も清水の一仏と。頼はあひに近江路や。勢田の長橋ふみならし駒も足なみ勇むらん。」
『烏帽子折』の上歌:「藁屋の床の古。/\。都の外の憂き住まひ。さこそはと今思ひ粟津の原を打ち過ぎて。駒もとゞろと踏みならし。勢田の長橋うち渡り。野路の夕露守山の。下葉色照る日の影もかたぶくに向ふ夕月夜。鏡の宿に着きにけり/\。
『盛久』の上歌:「これやこの。行くも帰るも別れては。/\。知るも知らぬも。逢坂の関守も今の我をばよも留めじ。勢田の長橋うち渡り。立ち寄る影は鏡山。さのみ年経ぬ身なれども。衰は老曽の森を過ぐるや美濃尾張。熱田の浦の夕汐の道をば波に隠されて。廻れば野辺に鳴海潟又八橋や高師山また八橋や高師山。」
能の道行きいつも先を急いでいるので、橋を「うち(「さっさと」の意)わたる」が、「田村」は勝修羅三番の一つらしく「ふみならし」と勇ましい。「うちわたる」は、馬に乗って渡ることだという解釈もあるようだ。「盛久」と同様に鎌倉へ護送される平盛久を扱った乱曲「東国下」の道行は「盛久」よりも詳細だが、瀬田の唐橋については、「瀬田の長橋かげ見えて。長虹波に連なれり。」という、川面に映る橋の影が虹のように波に揺れ動く様を表現したと思われる美しい詞章がある。これらは総て東に下る道行で、上洛するものが見当たらない。
なぜ「唐橋」と言われるのか由来は定かではない。能の詞章ではほぼすべて「瀬田/勢田の長橋」となっている。わずかに番外の「安達靜」の道行に「瀬田の唐橋打ち渡り」と「唐橋」が見える。
「巴」
シテ「木曽の山家の人ならば。粟津が原の神の御名を。問はずは如何で知り給ふべき。これこそ御身の住み給ふ。木曽義仲の御在所。同じく神と斎はれ給ふ。拝み給へや旅人よ。」
巴が恩田八郎師重を討ち取った話は「現在巴」にワキ「ここに武蔵の住人に。地「恩田の八郎師重とて。巴に組まんと飛んで懸るをわだがみ握むで引き寄せて。首捻ぢ切てぞ捨てにける。
と出てくる。
「兼平」
今井兼平の墓地「扨其後に思はずも。敵の方に声立てゝ。シテ「木曽殿討たれ給ひぬと。地「呼ばはる声を聞きしより。シテ「今は何をか期すべきと。地「思ひ定めて兼平は。シテ「是を最期の広言と。地「鐙ふんばり。シテ「大音上げ木曽殿の。御内に今井の四郎。地「兼平と。名乗りかけて。大勢に。割つて入れば。もとより。一騎当千の。秘術を顕し大勢を。粟津の汀に追つつめて磯打つ波の。まくり切り。蜘蛛手十文字に。打ち破り。かけ通つて。其後。自害の手本よとて。太刀をくはへつゝ逆さまに落ちて。貫かれ失せにけり。兼平が最期の仕儀目を驚かす有様なり目を驚かす有様。
京都あたりで作られたと思われる『平家物語』などでは、その壮絶な死に方で知られた今井兼平だが、『吾妻鏡』は東国・頼朝目線なので一條次郎忠頼已下勇士競争于諸方。遂於近江國粟津邊。令相摸國住人石田次郎誅戮義仲。其外錦織判官等者逐電云々。
とそっけない。
「雷電」
比叡山延暦寺東塔 登天天満宮
シテ「其時丞相姿俄に変り鬼のごとし。ワキ「をりふし本尊の御前に。柘榴を手向け置きたるを。地「おつ取つて噛み砕き。/\。妻戸にくわつと。吐きかけ給へば柘榴忽ち火焔となつて扉にばつとぞ燃え上る。僧正御覧じて。騒ぐ気色もましまさず。灑水の印を結んで。鑁字の明を。唱へ給へば火焔は消ゆる。煙の内に。立ち隠れ丞相は。ゆくへも知らず失せたまふ/\。
比叡山延暦寺の座主法性坊の律師僧正が天下の御祈祷のため百座の護摩を焚き、満参となったので仁王会を取り行なおうとすると、中門の扉をたたく者がいる。見ると丞相(菅原道真)なので、はや此方へと招き入れる。旧知の二人は語り合うが、丞相の「死しての後梵天帝釈の憐を蒙り。鳴雷となり内裏に飛び入り。われに憂かりし雲客を蹴殺すべし。其時僧正を召され候ふべし。かまへて御参り候ふな。」という願いを僧正が「王土に住める此身なれば。勅使三度に及ぶならば。いかでか参内申さゞらん。」と断ると、上のようなシーンとなって中入りとなる。
「草薙」・「源太夫」
熱田神宮本宮
「草薙」は宝生流にのみ伝わる。
ツレ「我は熱田の源太夫が娘。橘姫の幽魂なり。シテ「我はこれ景行天皇第三の皇子。日本武尊。地「神剣を守る神となる。
ワキは比叡山から来た恵心僧都源信。「一七日(7日間)最勝王経を講じ奉り候。」と言うと、橘姫の霊は「さては有難や我らが望む御経なり。」と現在の熱田神宮からは想像できない神仏習合の世界らしい反応を示す。日本武尊の霊は『日本書紀』そのままに草薙の剣の由来を語る。「神道も栄え国も富み。人も息災なる事は。唯此経の徳とかや」と最勝王経を讃えて終わる。
「源太夫」は金春流にのみ伝わる。
シテ「今や何をか包むべき。簸の川上に現れし。ツレ「我は
ヤマタノオロチから救われてスサノヲの妻となったクシナダヒメの両親がアシナヅチとテナヅチ。アシナヅチは、どういう事情か東海道を行く旅人の守護神の源太夫となっている。ワキは勅使。天皇は何を思ったのか「さても尾州熱田の明神は霊神にて御座候ふ間。急ぎ参詣申せ」という宣旨を下した。
「小鍛冶」
地「いかにや
「東山稲荷の峯」の御劔社
祇園祭の
室町時代に奈良へ移り刀剣を製作していたが、現在も若草山麓で包丁などの製造・販売を行っている。
「舎利」
泉涌寺舎利殿
ワキ詞「不思議やな俄に晴れたる空かき曇り。堂前に輝く電光。こはそもいかなる事やらん。シテ「今は何をか包むべき。其古の疾鬼が執心。猶この舎利に望あり。許し給へや御僧達。ワキ「こはそも見れば不思議やな。面色かはり鬼となりて。シテ詞「舎利殿に臨み昔の如く。ワキ「金冠を見せ。シテ「宝座をなして。地「栴檀沈水香。栴檀沈水香の。上に立ち上る雲煙を立てて。電の光に飛び紛れて。もとより足疾鬼とは。足早き鬼なれば。舎利殿に飛び上りくる/\/\と。見る人の目をくらめて。其紛に牙舎利を取つて。天井を蹴破り。虚空に飛んであがると見えしが行くへも知らず失せにけり/\。
前シテの里人はワキの旅の僧の前で足疾鬼となり、牙舎利を奪って舎利殿の天井を蹴破り、虚空に飛び上がり「行くへも知らず失せにけり。」と中入りになる。
「車僧」
車僧影堂
地「不思議やなこの車の。/\。ゆるぎ廻りて今までは。足弱車と見えつるが。牛も無く人も引かぬにやす/\と遣りかけて飛ぶ。車とぞなりにける。
車僧が虚空を打つと、空飛ぶ車椅子となる。
「土蜘蛛」
北野東向観音寺
塚を崩し石をかへせば。塚の内より火焔を放ち。水を出すといへども。大勢崩すや古塚の。怪しき岩間の陰よりも。鬼神の形は。顕れたり。
「放下僧」
瀬戸神社ワキ詞「これは相模の国の住人。利根の信俊と申す者にて候。われ此間うち続き夢見あしく候ふ程に。瀬戸の三島へ参らばやと存じ候。
瀬戸神社:横浜市金沢区瀬戸18-14
ここは武蔵國久良岐郡なので、相模の国の住人が参拝するならば相模国一宮の寒川神社とか鶴岡八幡宮の方がよかったのではと…。それが運命の分かれ道だった。
「通小町」
補陀洛寺(小町寺)ワキ詞「これは八瀬の山里に一夏を送る僧にて候。こゝに何処とも知らず女性一人。毎日木の実妻木を持ちて来り候。今日も来りて候はゞ。いかなる者ぞと名を尋ねばやと思ひ候。(中略)ワキ詞「かゝる不思議なる事こそ候はね。唯今の女の名を委しく尋ねて候へば。をのとはいはじ薄{すゝき}生ひたる。市原野に住む姥と申しかき消すやうに失せて候。こゝに思ひ合はする事の候。或る人市原野を通りしに。薄一村生ひたる蔭よりも。秋風の吹くにつけてもあなめあなめ。小野とはいはじ薄生ひけりとあり。これ小野の小町の歌なり。さては疑ふ所もなく唯今の女性は。小野の小町の幽霊と思ひ候ふ程に。かの市原野に行き。小町の跡を弔はゞやと思ひ候。
市原から八瀬へ岩倉・上高野経由で行くと5.5Kmくらいになる。考えようによっては、歩いて往復できる距離かもしれない。
「六浦」
青葉楓前シテ「鎌倉の中納言為相の卿が紅葉を見んとて此処に来り給ひし時。山々の紅葉いまだなりしに。この木一本に限り紅葉色深くたぐひなかりしかば。為相の卿とりあへず。いかにして此一本にしぐれけん。
謡曲史跡保存会の立札には、「新植された青葉楓の幼木の長寿を祈ります。」と書いてある。
称名寺:横浜市金沢区金沢町212
「夕顔」
三人歌「賀茂の御社伏し拝み。/\。糾の森も打ち過ぎて帰る宿は。在原の。月やあらぬとかこちける。五条あたりのあばら屋の。主も知らぬ処まで。尋ね訪ひてぞ暮しける/\。ワキ詞「急ぎ候ふ程に。これは早五条あたりにてありげに候。不思議やなあの屋づまより。女の歌を吟ずる声の聞え候。暫く相待ち尋ねばやと思ひ候。
「俊成忠度」
ワキ詞「又承り候へば。五条の三品俊成卿と。和歌の御知遇の由申し候ふ間。此短冊を持ちて参り。俊成卿の御目に書けばやと存じ候。」
「蟻通」
ワキ「今の暗さに行く先も見えず。しかも乗りたる駒さへ伏して。前後を忘じてさふらふなり。シテ「さて下馬は渡もなかりけるか。ワキ「そもや下馬とは心得ず。こゝは馬上のなき所か。シテ「あら勿体なの御事や。蟻通の明神とて。物とがめし給ふ御神の。かくぞと知りて馬上あらば。よも御命は候ふべき。ワキ「これは不思議の御事かな。さて御社は。シテ「此森の中。ワキ「実にも姿は宮人の。シテ「ともしの光の影より見れば。ワキ「実にも官居は。シテ「蟻通の地「神の鳥居の二柱。立つ雲透に。見ればかたじけなや。実にも社壇の有りけるぞ。馬上に折り残す。江北の柳蔭の。糸もて繋ぐ駒。かくとも知らで神前を恐れざるこそはかなけれ恐れざるこそはかなけれ。
現在の蟻通神社は昭和十九年に移された場所にあるので、能「蟻通」の舞台は旧地となる。
紀貫之は、ここで「かきくもり あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思うべしやは」という歌を残している。
シテ「貫之にてましまさば。歌を詠うで神慮に御手向け候へ。ワキ「これは仰にて候へども。それは得たらん人にこそあれ。われらが今の言葉の末。いかで神慮に叶ふべきと。思ひながらも言の葉の。末を心に念願し。雨雲の立ち重なれる夜半なれば。ありとほしとも思ふべきかは。シテ「雨雲の立ち重なれる夜半なれば。ありとほしとも思ふべきかは。面白し/\。我等かなはぬ耳にだに。おもしろしと思ふこの歌を。などか納受なかるべき。ワキ「心に知らぬ科なれば。何か神慮に背くべきと。シテ「万の言葉は雨雲の。ワキ「立ち重なりて暗き夜なれば。シテ「ありと星とも思ふべきかはとは。あら面白の御歌や。
と、能では和歌の解釈もしてくれる。
「右近」
右近の馬場
地「雲の行く。そなたやしるべ桜狩。/\。雨は降りきぬ同じくは。ぬるとも花の蔭ならばいざや宿らん松かげの。ゆくへも見ゆる梢より。北野の森もちかづくや。右近の馬場に着きにけり/\
上歌に「ひをりせし。右近の馬場の木のまより。/\。影も匂ふや朝日寺の。春の光も天満てる神の御幸のあとふりて。松も木高き梅がえの。立枝も見えて紅の。初花車めぐる日の。轅や北につゞくらん。/\。
と出てくる朝日寺は、参道を挟んだ西側にある東向観音寺を指している。
「輪蔵」
北野経王堂願成就寺
これは筑前太宰府に居住の僧にて候。我若年の昔より。仏法修行の志淺からず候へども。いまだ都を見ず候ふ程に。洛陽の自社に参り。殊には北野の天満天神は。当社御一体の御事なれば。参詣申さんと唯今思ひ立ちて候。
と太宰府からやってきた僧がワキ詞「急ぎ候ふ程に。都に着きて候。これより北野に参らばやと思ひ候。サシ「ありがたや釈迦一代の蔵経を。大唐よりも渡しつゝ。末世の衆生済度のために。輪蔵に納め結縁の。手に触れ縁を結ばせんとの。御神の誓ぞ有難き。南無や傅大士普建普成。現受無比楽後生清浄土。
と、北野経王堂願成就寺の輪蔵に到着する。
ワキの太宰府の僧達は、太宰府天満宮の神宮寺だった筑紫安楽寺の僧なのだろう。この寺は明治初期の廃仏毀釈で破壊され廃寺となってしまった。虫のいいことを言っているように感じられる「現受無比楽 後生清浄土」は出典がやや怪しいが、『一遍上人語録』には、その前提として「一念弥陀仏 即滅無量罪」が付いている。「一念」をどう解釈するか問題が残りそうだが、阿弥陀如来への帰依を説く浄土教的な文言。
「傅大士普建普成」は、輪蔵を考案したという