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西浅井町

和倉堂

和倉堂

和倉堂の十一面観音立像


善隆寺

和倉堂は昔はお堂だったようだが、現在は収蔵庫となっていて国の重文の木造十一面観音立像と木造仏頭を安置している。
和倉堂がある善隆寺は西浅井町山門(やまかど)の集落にある浄土真宗仏光寺派の寺。
「山門」の少し南にある「庄」の集落の山腹にかつて天台寺院があり、そこの僧が転宗してここに真宗の寺を建てた。
十一面観音立像はやや西域風な端正なお顔立ち。広葉樹の一木造。平安時代中期頃の作だろうか。
木造仏頭は定朝様の穏やかなお顔。半丈六の阿弥陀如来坐像の頭部だろう。これらは、天台寺院の僧が寺を堂守(新三郎?)に任せて山門に移った時、その僧か堂守の夢に観音様が現れ一緒に連れて行ってくれと言われたので移したという。文化十四年(1817年)のことと言う。阿弥陀如来像は大きいので頭部だけ移したのだという。「頭部がなくなった仏像で堂守の妻が…」という祟りの後日談があるようだが、仏頭だけでも残されてよかったと言うべきか…
山門に和倉講があり、毎年八月に法要が行われるという。



徳圓寺

徳円寺

曹洞宗の寺。
本尊の馬頭観音立像も、かつて存在した天台寺院(寺号は安養寺?)にあったもの。
すらりとした体形、八臂(腕)の内、武器を持ち上に挙げた二臂は筋肉質だが、その他四臂の細くて柔らかそうな手や細長い手指は、むしろ十一面観音を思わせる。踵で立っていて足の裏を正面に見せている。足裏が見える仏像はそれほど稀ではないが、爪先立ちで足の裏が見せているのはここだけかもしれない。
厨子内には、馬頭観音の向かって右に不動明王、左に毘沙門天立像が向き合う形で立っている。これらは、馬頭観音よりもずっしりとした感じで制作年代や仏師が異なるのではないかと思われる。



腹帯観音

 

このお堂は建てなおされるとのこと。写真は2014年6月現在。


腹帯観音

腹帯観音


2003年9月に腹帯観音は台座、光背もろとも盗難にあった。盗難車の2トントラックで持ち去られた。地元の「神行会」の人達が懸賞金300万円を用意し、チラシを掲示するなどして返還を呼び掛けたら、2005年4月に京都の男から連絡があり、写真で盗まれた仏像と確認後、京都市内の駐車場で男と接触、現れた男は警察に任意同行を求められた。同月、仏像はこのお堂に戻られた。
最澄作という伝承だが穏やかなお顔立ちや浅い衣文線は定朝様を感じさせ、もう少し後の時代の作という感じ。カヤと思われる針葉樹の一木造の仏像で、いかにも湖北の観音様の容姿だ。
腹帯のサラシにはこの十一面観音と両側に安置されている地蔵菩薩立像と毘沙門天像が刷られているが、その版木は享保四年(1719年)に蓮心という大浦八幡の神宮寺だった観音寺の僧が作ったものだという。地蔵菩薩立像と毘沙門天像は蓮心が宝永八年(1711年)に勧進状をつくり勧進してまわり、享保三年(1718年)に造られた。この勧進状によると、観音寺にあった観音像は、元亀の戦乱時に境内の池だか土中に埋められ寛文二年(1662年)に88年ぶりに八幡宮の神職が発見し社殿に安置した。明治の神仏分離で現在の場所に移されたようだ。
地蔵菩薩立像は江戸時代の作で、この地方の基準からすると新米だが、すらっとした姿は美しい。

 

 

近江では珍しい種子板碑、それも双身の。


腹帯観音

腹帯観音


鎌倉時代のものと言われる五輪塔(仮に、ここを正面として)

球状の水輪の裏側には阿弥陀如来?


腹帯観音

腹帯観音


腹帯観音

地輪と水輪の横には梵字の種子らしきもの。
これは薬研彫りだそう。


石風呂:寛元3年(1245年)と彫られているらしい。


腹帯観音

腹帯観音


八幡神社の御旅所

八幡神社は「北淡海・丸子船の館」の少し南にあるが、大浦八幡宮というのも腹帯観音の南東にあるらしい。


北淡海・丸子船の館

北淡海・丸子船の館

北淡海・丸子船の館