葛籠尾崎、菅浦
尾上漁港から菅浦へ湖上タクシーという十数人乗りの船で向かう。北側から竹生島を見る機会はなかなかない。
葛籠尾崎
大正十三年(1924年)、この辺りの漁業権を持つ尾上の漁師がイサザ漁をしていたところ、縄文土器などが網にかかった。
葛籠尾崎から竹生島にかけて東西700mの範囲に縄文時代から平安時代までの土師器や須恵器が引き上げられた。湖底は水深70m近い谷になっている。土器の底が固定に沈んで割れていない完全な形で上がるのが特徴。それも下部が湖底の泥に埋まって湖生鉄(湖成鉄と書いている文献もある)が付着しているが、上部は付着していないので水中に頭を出した形で沈んでいたと考えられる。実際に使用し煤が付いているものもあるが、時代を下るに従って使用した形跡はなくなる。
水中考古学のはしりのような湖底遺跡だが、米原市の尚江千軒遺跡のように地震による地すべりで埋没したとか、沈没船の積荷だったとか、湖上水運の安全祈願の祭祀で投じたとか、諸説ある。
完全な形で残っている事や、土器の底が湖底に埋もれた形で出るなど、人が丁寧に投じた感じがして、土砂崩れ等で押し流されて埋没したとは考えにくい。
古くから、塩津-(尾上)-(菅浦-大浦)-今津…大津という湖上ルートがあったはずで、社跡が発見されている葛籠尾崎と竹生島の間の一種の神域を渡る時に水神様にお供えというのはありそうな事だと思うが、湖上祭祀を描いた絵図でも発見されない限り、決着はつかないだろう。
野本寛一著『神と自然の景観論 信仰環境を読む』の「緒言」に下田市白浜一色の竜宮島・白嶋神社についての記述がある。この「岬」と「その先の島」という関係に、葛籠尾崎と竹生島の関係を連想させられた。これについては「第2章 地形と信仰の生成」の「1.岬」で更に論じられているが、葛籠尾崎と竹生島の間を通過する船が水中投供を行ったという事はいかにもありそうに思われる。湖上を塩津を目指して進む船にとって竹生島は「山アテ」ならぬ「島アテ」であったはずだ。この葛籠尾崎と竹生島の関係は、平安時代に竹生島が神仏習合の霊場として知られるようになるに従って、それに吸収される形で次第に消滅していったのだろう。
高嶋之 足利湖乎 滂過而 塩津菅浦 今香将滂
たかしまの あどのみなとを こぎすぎて しほつすがうら いまかこぐらむ
小弁の歌一首 巻九-1734
この万葉集の歌の感じがよくわかる。
葛籠尾崎を回り込むと菅浦が見えてくる。
滋賀県長浜市西浅井町菅浦
菅浦は「菅浦文書」と言われる一連の古文書や「菅浦与大浦下庄堺絵図」などが残されていた集落で、中世集落の自治組織「惣」研究などに重要な集落となっている。
東の四足門
集落の東西にあり、集落の境界を示していた。昔は南北にもあったという。
長福寺(二尊堂)跡
淳仁天皇は天武天皇の孫で、聖武天皇の女(娘)が即位した孝謙天皇から天平宝ニ2年(758年)譲位され、孝謙天皇は上皇(太上天皇)になった。実質的に藤原仲麻呂(恵美押勝)が権力を握っていたが、弓削道鏡と近づいた孝謙上皇との仲が険悪になる。藤原仲麻呂のクーデター(藤原仲麻呂の乱)は失敗に終わり、淳仁天皇も連座させられて
『續日本紀』卷廿六「稱德紀一」では、淳仁天皇は天平神護元年(765年)に「廢帝崩於淡路」と淡路島で亡くなったとされるが、この地の伝承では、
ヤンマー作業所
昭和三十年代にヤンマーが私有地にこのような作業所を作り加工機械一式を置き加工外注してきた。2013年現在でも10ヶ所ほどは使われているという。高齢化が進んでいるが、熟練工になっているとの事。
副収入源としてありがたいだろう。しかし、永原工場も閉鎖の計画があり先行きは厳しい。
阿弥陀寺
天台宗の寺だったが、文和二年(1353年)、
本尊は快慶の弟子の行快作の一木造り阿弥陀如来立像。また長福寺にあった木造聖観音坐像と阿弥陀如来坐像二軆もここに移されている。聖観音像は"湖北の観音"の一つとしてよく見るが、阿弥陀如来像が陰に隠れてしまっているのはお気の毒な感じ。
更に、渡来人がもたらしたのではないかと思われる手の仕草が可愛らしい金銅製観音菩薩立蔵がある。
山が湖に迫っている土地なので、大雨が降ると大量の雨水が集落を通り抜ける。そのため普段は道にもなっている水無川のような水路が集落を幾つも山側から湖側へ通っている。
安相寺
龍谷大学図書館本願寺資料研究室蔵『福田寺系図』『布施山温古記』によると、浅井長政には二人の息子がいて、その次男は万菊丸(万寿丸とも)といい、米原市にある浄土真宗本願寺派布施山福田寺(長沢御坊)の十一世覚芸の養子となり、十二世正芸(伝法院)になったとされる。福田寺の来歴を記した『布施山温古記』によると小谷城落城後、信長側に察知されることを恐れ、菅浦福田寺の末寺のこの寺にかくまわれたという。
琵琶湖が南側にあるため、台風が来た時など、波が相当に高くなるらしい。そのため、二段構えの石垣で家を守っている。それでも、時には波がこの二段目の石垣を越える事があるそうだ。
出入りのための通路に石垣の切れ目ができるが、そこも波が押し寄せる危険がある時は、この溝に板を嵌めて塞ぐ。
船溜りは東西二箇所あり、西の川は防波堤が造られて港になっているが、東の川の船溜りは湖岸の道で塞がれてしまっている、湖岸には防波堤が残っている。
西の四足門
西の四足門の内側には六地蔵がある。六地蔵は普通は墓地の入口にあり、まさにここが境界だった事を示している。
扉があるわけでもなく、垣があるわけでもないので、象徴的なものかと思いきや、、外敵が攻めてきた時は、柱を外すとか、左右の石を外すと門が倒れて防御壁になる構造だという。村外側の柱が立っている位置や造りが不自然なので、確かにそういう仕掛けがありそうだ。
須賀神社
右下の写真の説明のとおり、明治四十二年(1909年)(四十三年?)に保良神社(菅浦大明神)に小林神社(八王子権現)、赤崎神社(赤崎明神)を合祠し須賀神社となった。
『菅浦文書』は大正六年(1917)、須賀神社に伝来した「開けずの箱」と呼ばれていた唐櫃から発見されたと言われる。
元々の保良神社は、ここにあったらしい。
この説明からすると、本当の本殿(と言うよりご神体だろう)はその後ろの淳仁天皇の御陵か?
手水舎の水の出口は巻貝。
この石段から上は土足禁止。石段はともかく、拝殿・本殿まわりの砂利は裸足では痛すぎる。でもスリッパが用意してある。
本殿
背後には淳仁天皇の舟型御陵がある。