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日野(1)

日野の町はやたらと東西に細長い。西の果ての近江鉄道日野駅から東に歩く。

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蒲生高郷の墓への標石。
墓はこの先の摂取院にある。


鈴休(すずやみ)神社

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祭神の阿須波神と次波比岐神は『古事記』では共に建速須佐之男命の子の大年神と天知迦流美豆比賣(アメシルカルミヅヒメ)の間の10人の子の内の二人。地盤と境界の神で、いずれも屋敷神というが、他の兄弟たちと合わせて農業生活全般に関係した神々というところだろうか。
神社の説明では、万葉集 巻20(防人の歌)-4350の「庭中の 阿須波の神に 小柴さし あれは斎はむ 帰り来までに」という歌を挙げて、旅の安全を祈ったとしている。そういう解釈もあっても良しか。
それにしても、鈴が休むというのは、天智天皇が休んだという伝承以外に何かの伝承があった感じがする。


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『神社明細帳除籍簿2』(請求番号 明-す-26 )に、野神社が「明治四十二年一月十六日付 教第一〇二九号ヲ以テ村社鈴休神社ニ合併」という朱書きの記述がある。滋賀県神社庁のウェブページにも、境内社として天照大御神社に加え、山神社、野神社が載っている(http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=759 2022.5.30)。左下写真の本殿左右の小祠が山神社、野神社だろう。

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八幡神社


御代参街道(伊勢道)

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御代参街道は東海道の土山宿と中山道小幡あたり(愛知川宿)とを結ぶ脇街道。朝廷などによる伊勢神宮と多賀大社への代参の時に使われた道というのが名の由来。北陸や湖北・湖東から伊勢へのショートカットとなっている。


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五所神社

右下写真にある千家尊福(せんげたかとみ)は、出雲国造で国家神道との見解の相違から出雲大社(おおやしろ)教を設立した人。どういうご縁だったのかと思えば、出雲国から彦健忍雄心命が天穂日命を綿向山に祀り、馬見岡綿向神社の宮司は理由は調べがつかなかったが室町幕府から改易されるまで出雲家だったという。その後は紀氏が宮司になったが、鎌倉時代から徐々に勢力を拡張してきた蒲生氏と在地豪族(地頭)の太田(大田?)氏との紛争が同時期にあって、それに巻き込まれたのではないかという推測もできそうだ。なお、五所神社の五所の一つ伊室神社はその彦健忍雄心命に加え、出雲国造家から来て宮司となった健骭宿禰、改易された時の最後の宮司である出雲宿禰貞尚を祀っている。(3つ下・右の写真を参照)


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明治四十三年に雅植神社、伊室神社、口之宮神社、日吉神社を合祀して五社神社となった。これは同年に出された神社合祀令によるものだろう。五所神社の辺りは上野田(こうずけだ)の集落で、日野祭りでは神子(かみこ)神調社(しんちょうしゃ)(芝田楽)のメンバーを出す。
8月の火ふり神社にも登場する3人の神子は伊室神社の3祭神、彦健忍雄心命、健骭宿禰、出雲宿禰貞尚を現している。


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日野薬品工業株式会社
正野萬應丸を引き継いだ製薬会社。昭和十八年(1943年)に企業整備令により正野玄三薬店など日野の製薬会社36社が合併し近江日野製薬株式会社として設立された。
昭和三十一年(1956年)に日野薬品工業へ社名変更。
2010年に民事再生法適用を申請、大木の傘下に入った。


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ここらから、伝統的町並みがぼつぼつと見られる。


雲雀野

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日野祭では、5月3日に3人の神子(神児)や祭りを仕切る神調社などが五社神社から、この御旅所へ渡御する。
8月14日~15日の火ふり祭では、五社神社で松明に火がつけられ日野祭の神子と共に雲雀野に来て松明を松の木に投げ上げる。もともとは五所神社の内の伊室神社の祭りだったという。松の枝に松明が多く引っかかればその年は豊作といわれる。松の木には迷惑な行事。行事終了後はちゃんと消火してはいる。
下の「松の木を守りましょう」が、この祭りへのあてつけに見える。でも日頃、松の木を大切にしないと、火ふり祭もできないしね。


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口之宮神社(加夜都比古神社)


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蒲生氏は藤原秀郷の末裔を自称した日野の豪族。六角氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、うまく渡り歩いたが、1634年、蒲生忠知の代で断絶した。
応仁・文明年間に蒲生貞秀は音羽城を築く。その後、孫の蒲生秀紀と弟の高郷が家督相続争いを起こし、音羽城は廃城、秀紀は南の鎌掛城へ移り、高郷は日野城(中野城)を築いた。高郷の曾孫にあたる蒲生氏郷は織田信長に重用され、後に豊臣秀吉に仕え、伊勢松ヶ島(松阪市)十二万石、会津四十二万石と移封された。
万葉集の額田王大海人皇子の贈答歌で有名な蒲生野は日野の北西にあたる西老蘇、武佐、内野あたりのイメージで、このあたりの地形にはちょっと合わない。


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馬見岡綿向神社の春季例祭の日野祭の時に出される曳山をしまってある山倉。京都の祇園祭の山鉾のように解体せず、懸装品を外した山をそのまま格納している。そのため背の高い倉があちこちに建っていて目につきやすい。近江の曳山が出る祭りは大津祭など京都祇園祭の真似だが、日野祭の曳山は"日野商人の商い場や出店の多くが、関東地方に多かったことから、日野地方には江戸時代の関東文化が今も伝えられておます。その一例が日野祭の曳山や舞囃子ですが、"(近江日野商人館の『近江日野商人四百年の歴史と商法』というパンフレットより)。曳山は16基あり、山中家が資金を出して18世紀半ば頃に造ったのが最初と近江日野商人館では言っていた。

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下大将軍町界隈

「平安時代に盛んだった大将軍が祭られているのは、日野城下町以前すでにこの附近に人家集落のあったことを証明している」。
こういう考察は良いですね。

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野神さんっぽい木のそばに祠と道標。道標には「左 山王宮、右 いせみち」と書いてある。南山王宮日枝神社はここから南へ、伊勢道は西なので、この道標は元々はこの交差点の南西角に立っていたのではないだろうか?

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豪商の家が並ぶ高級住宅地といった地域


山中兵右衛門宅(近江日野商人館)

見どころは何と言っても奥座敷。お助け普請の話は五個荘金堂でも聞いたが、ここでも職人に仕事を与えるために昭和十一年頃の不況時に建てられた。天井に屋久島の縄文杉を使っているとか、床の間の柱、違い棚、廊下の天井、欄間とか、現代ではまず手に入らない材料を使っている。
昭和十一年は二・二六事件が起こった年。昭和七年の上海事変、満州国建国、昭和八年に国際連盟脱退、この間、東北地方は冷害・凶作が続くという暗いイメージの時代だが、高橋是清の財政政策と一方では軍備増強により昭和十年頃から景気全般はよくなったとされている。しかし、農村にその恩恵は行き届かなったという事だろう。

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日野商人は日野椀を販売していたが、日野椀製作の木地師には八風街道から入った蛭谷や君ケ畑から下りてきて日野に定住した人たちがおり、漆の塗師もここに住んでいたという。北の松尾にある井林神社に()神社という末社があり、そこには木地師が祖として崇めた惟喬親王が祀られている。

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電話番号を玄関に表示している家が多い。もちろん、交換手につないでもらう昔の電話番号。迷惑勧誘電話、振り込め詐欺や個人情報保護を考える必要がなかった時代。


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この辺りが陣屋跡?

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越川町の集会所

左の写真では、「鍵形の辻」はわかりませんね。


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2017年1月7日に閉店した平和堂の脇にある稲荷神社。