飯道山
甲南駅からの飯道山の眺め。
貴生川町中の道標
金奇 山飯道寺
「こんき」という読みは金勝山と同じなのが気になる。
天台宗寺院。山上の飯道寺の里坊の一つだったと思われる本覚院を、明治二十七年に金寄山飯道寺として再興した。
本山派を語る紋。
阿弥陀如来坐像、十一面観音立像、地蔵菩薩立像、いずれも国の重文。
飯道寺の隣は杣三社大明神の一つ、日吉神社
岩壷不動尊
不動明王を線刻した岩でもあるのかと思ったが、実際には地元の老婆が夢でここに不動明王が出現したのを見たということで有名になったらしい。最盛期は前の道に屋台の店が並んだという。
杖の権現
飯道山 山頂
飯道寺跡
戒定院跡あたり。
木食応其(天文五年(1536年)~慶長十三年(1608年))は豊臣秀吉に近かった真言宗の僧。文禄五年(1596年)に地震で倒壊した方広寺木造漆膠像の大仏を金銅仏として再興する事を秀頼に命じられ、慶長四年(1599年)から着手した。しかし慶長七年(1602年)大仏鋳造中に溶解した銅が漏れ出し火災となり大仏殿が全焼してしまった。それを引責してか以降はここに蟄居していた。権力者達と交わったものの最後は原点に返った感もある。入定窟そのものは覆堂のために見ることができない。
飯道山は中世から近世初めを最盛期とする修験の山として知られる。ただ、飯道寺という一つの寺院という形態よりも、各塔頭寺院の独立性が高く、これら○○院の集合体というイメージに近い。
16世紀からは当山派の岩本院、梅本院の大先達が熊野新宮の本願所である新宮庵の庵主になっている。
石段の上は東照宮跡。
この先、左手には岩本院があったはず。
本地堂跡と札が立っているが、すぐ後は岩。
左手の平地に建っていたのか?
飯道神社
正しくは「いひみちじんじゃ」と読むらしい。飯道寺は飯道神社の神宮寺という立場だったが、実態は当山派と本山派が共存した修験の寺の存在が神社を圧倒していた。
行者堂
行場入口
宮町の方へ下る。…と言っても、本来はこちらが正面の参道のようでもある。
石段を下り始めるとすぐに左手に弁天堂。
金亀水。
石造の地蔵尊。
一応、ここで参道を出て麓に入ったということ。
参道入り口脇には白髭神社がある。
振り返ると飯道山。
道沿いには何か彫ってあったのではないかと思わせる岩(石碑?)が幾つかある(立っている?)。