金沢山 称名寺
真言律宗別格本山。鎌倉幕府第二代執権北条義時の庶子実泰が第三代執権泰時から六浦に所領を与えられ、その子の実時が金沢に別邸を築いた。実泰が
赤門
光明院
山門(仁王門)
元亨三年(1323)に描かれた重文「称名寺絵図」
阿字ヶ池
庭園は昭和五十三年度(1978)~昭和六十二年度(1987)に行われた発掘調査と鎌倉時代の絵図「称名寺絵図」に基づき復元された。「称名寺愛護会」が管理・手入れを行っている。
釈迦堂
金堂
紅葉しない「青葉楓」
能の「
前シテ「いにしへ鎌倉の中納言為相の卿と申しゝ人。紅葉を見んとて此処に来り給ひし時。山々の紅葉いまだなりしに。この木一本に限り紅葉色深くたぐひなかりしかば。為相の卿とりあへず。いかにして此一本にしぐれけん。詞「山にさきたつ庭のもみぢ葉と詠じ給ひしより。今に紅葉を停めて候。…前シテ「さきの詠歌に預かりし時。此木心に思ふやう。かゝる東の山里の。人も通はぬ古寺の庭に。われ先だちて紅葉せずは。いかで妙なる御詠歌にも預かるべき。功成り名遂げて身退くは。詞「これ天の道なりといふ古き言葉を深く信じ。今に紅葉を停めつつ。唯常磐木の如くなり。
と、歌に詠まれるという名誉を得たので、この上は身を退くのが正道であると、今は紅葉せず常緑樹になったという、随分謙虚な楓なのだ。
正二位権中納言
この楓は、板屋楓とか常盤楓と呼ばれる黄葉する落葉樹ではないかと言われているようだ。
都からやってきたワキの僧達は、六浦から安房の清澄へ行くと言っている。ここからも六浦の港が房総半島・東京湾の海運の拠点だったことがうかがえる。
北条顕時・貞顕の墓
北条貞顕は得宗家から外れていたものの、14代執権の高時が病で退いた後、内管領の長崎高資に推されて正中三年(1326年)に15代目の執権となる。しかし安達時顕の娘が高時の正室という関係で外戚の安達氏が推す高時の弟の泰家が出家し、同調して出家するものが多数出た。そのため貞顕は執権就任10日に辞職し出家する。嘉暦の騒動と言われる鎌倉幕府末期の騒動だった。
梵字がない五輪塔は称名寺の僧の墓らしい。
北条顕時・貞顕の墓の下った辺りには石仏や小さな五輪塔が並んでいる。この一段高い部分には三重塔があった。
その手前、一段低いところは広場になっている。
尾根の西側にある神奈川県立金沢文庫へ抜けるトンネルのそばにある北条実時の胸像。
新宮跡
称名寺の鎮守社。僧形八幡像を祀ってあったのがここか。
西国三十三所、秩父三十四所などの石仏がそれぞれまとめて置かれているが、最初は他所と同様に、道筋に順番に間をおいて置かれていたのではないだろうか。
「称名寺市民の森」となっている金沢山の頂上の八角堂。「海中出現観音」と書いた石柱がある。ここらに祀ってあったらしい。
ここが金沢山の山頂だが、北側斜面は頂上のすぐ手前まで宅地になっている。「称名寺市民の森」とフェンスで区切られた道を自家用車が走っていてびっくりさせられる。
昔は西南の釜利谷近くまで海が入り込んだ景勝地だったのだろうが、今でも東南方向の眺めが良い。
北条実時の墓
トマソン階段
「称名寺絵図」では草原の手前あたりに浴室、その東に地蔵院、広場の奥に経蔵が描かれている。
トンネルを抜けて神奈川県立金沢文庫へ
金沢文庫は北条実時が晩年に設けた。収集した仏教関係の文献、和漢の典籍や仏画などを収蔵している。鎌倉幕府滅亡後、足利文庫などに蔵書が流出し、徳川家康も江戸城の紅葉山文庫へ相当な量を所望したという。現在は神奈川県立金沢文庫が保管している。