帰命山養玉院如来寺
山門
大正十二年(1923)に養玉院と如来寺が合併してできた寺院。但唱の関係で如来寺の五智如来を見に来たつもりだったが、養玉院の方が歴史は古い。養玉院の前身寺院は円仁創建という伝承の
鐘楼
対になった石燈籠には「武州東叡山 浚明院殿 尊前」とある。浚明院は徳川十代将軍家治(元文二年(1737)~天明六年(1786))の諡号。田沼意次時代の将軍。奉献者には勢州亀山藩石川家の名が見える。寛永寺と関係があった養玉院のご縁で東叡山寛永寺から明治時代にでも移されたものだろうか。
明王堂
本堂
阿弥陀堂
無量光殿は阿弥陀堂の下
歸命山如来寺は寛永十三年(1636)に弾誓の弟子にあたる但唱によって創建された。第一京浜の高輪大木戸跡の西側が境内だったらしい。国会図書館デジタル化資料の〔江戸切絵図〕「芝高輪辺絵図」のほぼ中央「高輪北丁」に「大佛如来寺」が見える。「フジ」とあるのは富士塚だろう。寛永十六年(1639)に寛永寺の末寺として正式に認められた。この時、奥多摩
五智如来を安置した瑞應殿
右から左へ順に、
薬師如来
左上の説明によると、薬師如来像の一部だけは当初からのものらしいが、外見では他の四躰との違いはわからなかった。
宝生如来
大日如来
阿弥陀如来
釈迦如来
但唱は京都には蓮華寺や因幡堂平等寺に石仏を残している。
宮島潤子『謎の石仏』(角川選書 1993 113頁~)によると、伊那にいた但唱は、刻んだ仏像が誓願の二万体に達した成就の供養に五智如来像を造立することにした。出来上がった仏像は天竜川を筏で下り、河口の掛塚から船で品川の霊岸島まで海船で運び、そこから艀で高輪まで運ばれたという。
但唱坐像
前面に透明ビニールが下がっているので、よく見えない。
本当は下の天燈鬼たちが肩に担いでいるはずだが、重いので降ろしました?
阿吽の天燈鬼。興福寺の庚弁作という天燈鬼・龍燈鬼が有名だが、ここでは左右共に天燈鬼の形。
写実的な庶民らしい筋肉質で静脈まで浮き出た脚。
仏が守って下さって安心していられる、という感じの意味か。
堂内には、その他さまざまな小ぶりな仏像などが安置されている。
墓地へ
左の石柱は、如来寺の門前にでも立っていたのだろうか。
萬霊塔
植村家墓所
宗家墓所
参考史料:養玉院『瑞應 : 養玉院四百年史』あかね工房 1999