石部大橋からの菩提寺山と石部頭首工
廃少菩提寺
西応寺所蔵の明応年間(15世紀末)に書写された「四至封彊之絵図」から、天平三年(731年)に聖武天皇発願で良弁が開いたとされる円満山少菩提寺は菩提寺山南東斜面に広がった大寺であったことがわかる。金勝寺を大菩提寺といったのに対し少菩提寺と呼ばれた。興福寺の願安が平安時代初期に中興し、興福寺別院として発展した。織田信長と六角氏の戦いによって焼亡した。
仁治二年(1241年)の刻銘があり基準作例となる石造多宝塔。
上の写真の説明板によると、左の三体の地蔵尊像のうち、中尊は鎌倉初期の作。左右は南北朝期の作。向かって左側の尊像は合掌している。
閻魔王と左右に阿弥陀如来と地蔵菩薩を配した石仏
サンライズ出版の「新撰 淡海木間攫」という連載の「其の四十五 廃少菩提寺閻魔像」に伝承などが記載されている。
江戸時代に土砂流でうつ伏せに倒されていた石を石屋さんが、これはよい石だと思って割ったところ、帰ってから肩が痛くなって、石から血が流れている夢を見ました。翌朝早く、石を見に行ってひっくり返してみたところ石像が彫ってあったといういわれによるものです。
火葬場と共同墓地跡
眺めの良い場所に火葬場と共同墓地があった。
葬送の場としてこういう場所を選択する感覚に優しさを感じる。
左上の「旧火葬場と共同墓地」の説明にある「膳所が崎」は、ここの北東の地域で湖南市菩提寺西の一部。
磨崖五輪塔
菩提禅寺
少菩提寺と紛らわしい寺号だが、享保八年(1723年)創建の比較的新しい黄檗宗の寺。
少菩提寺の名残を伝える平安時代の作で国重文の木造阿弥陀如来立像が本尊。
石造地蔵菩薩立像の向かって左の刻銘に「永正十六」(1519年)とある。右側には「三界万霊 法界衆生」と書いてある。
法華塔
由緒は二つ上の写真を参照のこと。
和田神社
もともとは祇園天王社。上の説明に書いてあるように牛頭天王を祀った少菩提寺の鎮守社の一つ。
功徳円満山西応寺
少菩提寺禅祥坊が前身の真宗大谷派寺院。
十三重石塔が目立つ庭園。枯山水だが植込みの緑が美しい。
「四至封彊之絵図」にも描かれている巨大石。右上写真のように「登れます」の札が立っていた。