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水口宿(2)

大岡寺(龍王山観音院)

大岡山には、水口岡山城があった。天正十三年(1585年)、羽柴秀吉の命により中村一氏が築き、増田長盛、長束正家と入城した。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍の長束正家が籠城したが、池田長吉らに攻められ開城、正家は捕縛され自刃し、城は廃城となった。

水口・大岡寺

水口・大岡寺


本堂(観音堂)。二階堂造の上重屋根は仮の鉄板葺。

 


水口・大岡寺

水口・大岡寺


水口・大岡寺

水口・大岡寺


巖谷一六いわや・いちろくの顕彰碑。

顕彰碑の隣の諏訪社は、甲賀三郎繋がりだろうか?


水口・大岡寺

水口・大岡寺


水口・大岡寺

水口・大岡寺


行者堂

水口・大岡寺

水口・大岡寺


水口・大岡寺

寺伝では行基が諸国行脚に際し、白鳳十四年(684年)に大岡山(古城山とも)に一宇を建て、自彫の木像千手観音像を安置した。享保元年(1716年)に大岡山にあった東坊(本坊)を麓の現在地へ移築し二層の本堂に建て替えたという。俗に岡観音と呼ばれる。2013年10月のNHK「クローズアップ現代」*がこの寺の国の重文・千手観音立像と阿弥陀如来立像が所在不明と報じた。元々は天台宗だったが、こうした騒ぎのためか現在は単立寺院。


水口・大岡寺

芭蕉の句碑:いのち二つ中に活きたる桜かな
芭蕉は貞享二年(1685年)に訪れ、同郷の後輩で藤堂藩に仕えていた服部土芳と再会した。その時の句。土芳は翌年に藩を致仕、俳諧に専念し、後に伊賀蕉門の中心となった。


水口宿

水口宿


問屋場跡

水口宿

水口宿


水口宿


水口宿本陣跡

水口宿

水口宿


水口宿

水口宿


高札場

水口宿

水口宿


水口宿

水口宿


水口宿

水口宿


三筋の、まず、南と中央の筋が合流し、次に北側の筋と合流する東(東南)端

水口宿

水口宿


牛が淵

水口宿

水口宿


水口宿

水口宿


水口神社

水口宿

曳山まつりは毎年4月19日、20日に水口神社の例祭で行われる旧市街49町が参加する曳山祭。曳山は約3町毎に1基有し、全部で16基ある。正月にその年に出る曳山(たいていは)6基を決める。4月に入って巡行の順番を決めるクジトリを行う。19日は宵宮、20日が本祭で弟殿おとんどへ集まり、飾り付けを行ったのち、水口神社へ巡行する。曳山が神社に到着すると神輿が市街を廻る渡御が行われる。
雨乞いや飢饉が鎮まる事を祈願したのが曳山の起源で、享保廿年(1735年)から始まり、最盛期は30基ほどあったという。
巡行の時のお囃子・水口囃子は江戸の神田囃子に似ていると言われ、参勤交代の武士がもたらしたという。


水口宿

水口宿


水口宿

水口宿


水口宿

水口宿


水口神社の主祭神は大水口宿禰命で左下の由緒は、この地を開拓したとしている。『日本書紀』崇神天皇七年に穂積臣遠祖大水口宿禰とある。穂積氏とこの地との関係は?

水口宿

水口宿


 

玉津米神社


水口宿

水口宿


武雄神社

山王社?


水口宿

水口宿


水口恵比寿神社

稲荷社


水口宿

水口宿


 

明治九年(1876年)に郷社とされたが、大正十三年(1924年)に県社に昇格したので目立たない所に移されたらしい。


水口宿

水口宿


水口歴史民俗資料館に集められた道標

水口宿

水口宿


水口宿

水口宿


水口宿

「従是東水口領」と書かれた標石。
下の説明に書いてあるように片割れは藤榮神社にある。
この標石は水口藩領西界を示すもので、元泉の横田渡し、南対岸にあったものである。これに対し、東のものは今郷より、藤栄神社の境内に移されている。横田の渡しは石部宿と水口宿の間で野洲川を渡る渡しで、左の標石は野洲川左岸・石部側に立っていた事になる。