水口宿
水口城址
他の「お茶屋屋敷」と比べると、より本格的な城の造り。左上の説明に書いてあるように確かに二条城を思わせる。
柏原宿、赤坂宿
天和二年(1682年)に加藤明友が入り水口藩が成立し水口城を居城とした。城の周囲に武家屋敷地区が郭内として設けられ、京からの東海道も一旦北に曲がり郭内を迂回するルートとなった。
みなくちみんなの家
長屋門が残っている。
北上した東海道は次の五十鈴神社の角で東に曲がる。
五十鈴神社
勧請縄。中央のトリクグラズの輪がなく、願い事を書いた絵馬が下がっている。
郭内の武家屋敷から移築した真徳寺の長屋門。
百間長屋跡(約182mの長屋だったという事になる)。
説明によると玄関は南の城側で、この東海道側には出入口がなかったという。
水口石(力石)。
歌川国芳が描き、伊場屋久兵衛が摺った東海道五十三對の水口に描かれているというが…。
基になった『古今著聞集』巻第十では、「佐伯氏長強力の女大井子に遇ふ事」として佐伯氏長が越前の国よりのぼりける時。近江の国高島郡石橋を過侍けるに
と、高島とここの水口との関係が分からない。単に件石。おほゐこが水口石とて。かのこほりにいまだ侍り。
で水口の地名を結びつけただけだろうか?
東海道はここで再び北(写真では左へ)に曲がる。
そして南に曲がる。
東海道から外れるが…
藤榮神社
社号標石
石柱には、巖谷一六の書で「藤榮神社」
巌谷一六は明治時代の政治家で能書家としても知られる。
上の写真は居宅跡、大岡寺に顕彰碑がある。
裏には「従比川中西水口領」。遠回しだが厳密な表現だ。甲賀市水口町今郷と甲賀市土山町大野の境、大野西交差点の西を流れる稲川を渡る橋の袂に立っていた。
境内に天満宮もあったらしい。
藤榮神社から北へ行くと綾野天満宮はあるが…
ヴォリーズ建築事務所による水口教会会堂。
三筋に分かれる西(西北)端
大徳寺
国造神社は水口神社の
水口祭りの御旅所で曳山の集合場所になっている。
西田酒造
酔小町、古城山、みなくち等々
蓮華寺
水口城から移築された玄関
日雲宮
ヴォリーズ建築事務所による旧水口図書館。
ちょっとエキゾティックな雰囲気がある。
大岡寺の入口に立つ「鴨長明発心之地」の石碑(左下の写真)。
夜景に大岳といふ處に泊る。年ごろうちかなはぬ有樣に思ひとりて髮をおろしたれば、いつしかかかる旅寢するもあはれにて、かの廬山草庵の夜雨は、情ある事を樂天の詩に感じ、この大岳の柴の夜雨には、心なき事を貧道が歌に耻づ。
墨染のころもかたしき旅寢しつ
いつしか家を出づるしるしに
(鴨長明『海道記』二 「京より大岳」 http://jti.lib.virginia.edu/japanese/kaidoki/AnoKaid.html 2016/1/4)
もう一面に書いてある「岡観音甲賀三郎兼家」(右下の写真)の甲賀三郎の話は安居院流唱導で広まったらしく、『神道集』第五十諏訪縁起事に記載されているが、幾つかのバリエーションが出来たようで、この碑は『大岡寺観音堂縁起』(未見)の甲賀三郎兼家を意味している。近松門左衛門は宝永元年(1704年)に『甲賀三郎』という浄瑠璃を書いている。
柳田國男は「甲賀三郎の物語」(「物語と語り物」『柳田國男全集9』所収 ちくま文庫 1990)に、甲賀三郎の物語は『神道集』の諏訪縁起系統と、「京洛の地に入って行って、末は浄瑠璃となってしまうまで、全然別種の発達を遂げた」近江系の大岡寺縁起(『観世音利生記』)の系統に分けている。後者は甲賀三郎の子、小太郎が父の冥福のために大岡寺の観音堂を建立したとしている。