谷中七福神巡り
18世紀半ば過ぎの宝暦年間に始まった江戸最古の七福神巡りとされる。19世紀初頭に百花園ができた文化年間以降に始まったと思われる隅田川七福神めぐりがこれに続くようだが、史料の裏付けがないその他の七福神巡りがこの頃に幾つも設定されたようだ。
東覚寺からスタートすると、この七福神巡りコース全体は比較的直線的に南下し、北区、荒川区、台東区と辿る。
白龍山寿命院東覚寺(福禄寿)
赤紙仁王尊
江戸時代には隣の八幡社の入口にあったが、明治の神仏分離で別当寺であった東覚寺に移された。下の説明によると、参拝者が自分の身体の具合が悪い部分と同じ部分にに赤紙を貼るようになったのは明治に入ってからだという。
真言宗豊山派の寺で本尊は不動明王。福禄寿像は、そばにあった西行庵が廃寺となり移されたもの。
>浄居山青雲寺(恵比寿)
臨済宗妙心寺派の寺で、本尊は観世音菩薩。江戸時代には、次の修性院と並んで花見寺として知られていた。
滝沢馬琴筆塚の碑。「筆塚の碑」という言い回しが微妙。
大きな石碑は「日暮里船繋松」の碑だが左後半が読み取りにくい。その右下の小さな石碑が「安井金毘羅大権現鎮座」の碑。
運啓山修性院(布袋尊)
日蓮宗の寺。ギョロッとした目が印象的な布袋さん。
広重『名所江戸百景』中「日暮里寺院の林泉」はここらを描いたものだという。
富士見坂
2013年6月に不忍通りにマンションが建って富士山が見えなくなった。
坂の上は諏訪台通りが南北の尾根上を通っている。
諏方神社
左下写真の説明によると、鎌倉時代の元久二年(1205年)に豊島左衛門尉経泰が諏訪大社を勧請して創建され、後に日暮里・谷中の総鎮守となった。左下の説明板や、右下写真の鳥居の扁額は「諏方神社」だが、右下の石柱は「諏訪神社」になっていて、言偏の有無は曖昧なところがあるようだ。
養福寺の宝永年間に建てられたという仁王門。
経王寺
明暦元年(1655年)創建の日蓮宗寺院。
大黒堂に日蓮上人作とされている大黒天が祀られていて、江戸時代には谷中七福神に含むコースもあったらしい。
慶応四年(1868年)、上野戦争の時に彰義隊を匿ったので銃撃を受けた弾痕が山門などに残る。
大道山長安寺(寿老人)
臨済宗妙心寺派の寺。本尊は千手観音像。大きめの寿老人は本堂の左に置かれている。
板碑の薄さが感動的。
護国山天王寺(毘沙門天)
昆沙門天は感応寺にあった。法華(日蓮宗)の寺で不受不施派だったため、元禄十一年(1698年)、幕府が改宗を命じ、輪王寺宮公弁法親王により天台宗寺院として存続を認められた。その時に新たな本尊として比叡山飯室谷円乗院にあった伝教大師作とされる毘沙門天立像が移された。元禄十三年(1700年)に幕府からこの寺は江戸で最初に富突(富くじ)興行が許された事でも知られる。
天保四年(1833年)、法華宗に戻す動きが潰された際に、山号寺号を長耀山感応寺から護国山天王寺へ変えた。
谷中霊園の南に日蓮宗の感応寺があるが、その由緒は別のもののようだ。
丈六の銅造釈迦如来坐像
像の背後に、元禄三年(1690年)に神田鍋町太田久右衛門が鋳工として造像されたという銘文があるという。
谷中霊園・天王寺五重塔跡
初代は寛永二十一年(1644年)に建てられた。明和九年(1772年)に焼失し寛政三年(1791年)に再建されたが、昭和三十二年(1957年)に放火で焼失した。
大正五年(1916年)築の建物。一旦閉店したカヤバ珈琲だが、NPOなどの尽力で営業再開した。
護国院(大黒天)
護國院は寛永寺の最初の子院として創建され、釈迦堂の別当寺でもあった。大坂城落城25年の寛永十六年(1639年)に大念佛法要が釈迦堂で行われ、その時に家光から鎌倉時代の公家で画・歌人であった藤原信実筆という大黒天画像が寄贈された。宝永六年(1709年)に現在地へ移転。正月に公開される大黒天は、この絵ではなく、御前立ちとでも言うべき優しい笑顔の黒い大黒天像。
石造玉垣には各界有名人の名が並ぶ。
左の写真には落語家(三遊亭金馬)・講談師(一龍斎貞丈)・浪曲師(相模太郎)などの面々。左下写真には織物問屋滝富商店の関係者、俳優の長谷川一夫、右下写真には大野伴睦(自民党副総裁などを務めた政治家。東海道新幹線の岐阜羽島駅前に銅像が立っている。)など。
不忍池辯天堂(弁財天)
不忍池は琵琶湖、辯天堂がある中之島は竹生島にならっている。辯天堂は寛永寺の伽藍の一つという位置付け。八臂の弁財天像は竹生島宝厳寺から勧請したものという。
聖天さん
大黒天堂もある