東叡山寛永寺
德川歴代将軍御霊廟
五代将軍綱吉の霊廟の勅額門
根本中堂(本堂)
上野公園の噴水辺りにあった根本中堂は、元禄十一年(1698年)に落慶し、慶応四年(1868年)の上野戦争で焼失してしまった。明治十二年(1879年)に川越喜多院の本地堂を大慈院に移築して寛永寺の根本中堂とした。
幕府との関係が安定期にあった東山天皇御宸筆「瑠璃殿」の勅額
上下が圧縮されて読み取りにくいが「寛永寺」と書いてある瓦当。
銅鐘(青銅製の梵鐘)。四代将軍家綱の廟前にあったものが移された。
蟲塚は伊勢長島藩主で文人の増山正賢(号は雪斎)が『
一見すると観音様の石仏かと思ってしまうが、東京文化会館建設に伴って移された東叡山凌雲院四代目学頭慈海僧正の墓。
輪王殿と黒門
両大師堂(開山堂)
両大師とは良源と天海。もとは寛永寺の開山堂で、右下の写真にも「東叡山寛永寺開山堂」の看板がかかっている。ややこしいが、門跡寺院寛永寺の座主(「三山管領宮」で比叡山と日光の座主も兼務)が輪王寺宮と呼ばれ、現在の東京国立博物館の位置にあった本坊に住んでいた。明治に入って輪王寺宮は廃されたが、明治十六年に寺院としての輪王寺が再興された。
林光院
徳島藩(蜂須賀氏)の江戸中屋敷の御庭仕切門だった門。
寒松院
藤堂高虎の開創という石柱が石段左側に立っている。
五重塔
動物園に入らないと近寄れない。寛永八年(1631年)に建立されたが、寛永十六年(1639年)に焼失し、同年に再建された。国の重文。
東照大権現の五重塔だったが、明治の神仏分離で寛永寺に属すことになった。
東照宮
寛永十年(1633年)に酒井忠世が奉納した大石鳥居。国の重文。この年の酒井忠世は江戸城西の丸留守居だった。
寛永四年(1627年)に神社として創建され、正保三年(1646年)に東照宮となった。慶安四年(1651年)に三代将軍家光が造営替えを行った。
石燈籠
神楽殿
ここの大きな見どころは数々の銅造灯籠。国の重文。
修復工事中の唐門と社殿
修復完了
お化け灯籠
寛永八年(1631年)、佐久間大膳亮勝之が東照宮大権現に寄進した。この人物のが奉納した巨大石燈籠は熱田神宮にもある。
上野大仏
寛永八年(1631年)に建立され、地震や火災で度々損傷したが、関東大震災で頭部が落ち、昭和十五年(1940年)、軍の供出令で顔面以外を徴用されてしまった。元禄十一年(1698年)に落慶した大仏殿は明治八年(1875年)に解体・撤去された。
大仏は釈迦如来坐像。高さは約6mだったという。
時の鐘
不忍池辯天堂は、こちらへ。
清水観音堂
寛永八年(1631年)に天海が創建。
「月の松」。かわらけ投げのターゲットというわけではなかった?
上野戦争(彰義隊の戦い)の絵馬。