大音
一ノ宮神社
「奉安殿」とは、天皇・皇后の「御真影」と教育勅語を納めた建物で、火災で燃えたりしてはならないとコンクリート造りのものも多かったようだ。
大音
達磨式と言われる座繰器。
大音はすぐ南の木之本町西山と並び、邦楽器の絃の原糸となる生糸の糸とり(座繰製糸)で知られていた。明治末頃までは、専ら邦楽器用絃の生糸を生産していたが、その後、京都や大阪で行っていた邦楽器用絃の製造(撚糸の工程)も行なうようになり、昭和初期が最盛期だったようである。1929年のBlack Thursday以降の恐慌から戦時体制による生産の停滞・縮小、ナイロン絃の普及と邦楽器自体の衰退と需要が大幅に減少し、後継者難もあって保存会による伝承が図られる状態となっている。
伊香具神社
伊香式鳥居
当社正面の鳥居は三輪式と厳島式を組み合わせた独特の形式で、かつてこのあたりまで入江であったことを示すものである。
左下「伊香具神社由緒」より)
『近江輿地志略』
[大音大明神社]大音村に在り。縁起に云ふ抑當社の本祖を尋ねて系圖の来由を鑑みる 時は、天神七代の初、國常立の弟をば天御中主神と號す。此神十代の孫をぱ天兒屋根尊と號す。兒屋根尊六代孫をば伊香津臣命と云ふ、即此當社の明神也。地神五代の祖、天照大神天石窟に入りまして磐戸を閉ぢ給ふ時、兒屋根命等其祈祷を致して大神磐戸を出給ふ、則命等端出の縄を引渡し乃勿復還幸と請ふ、是則中臣藤原の神事を主どる源宗也。是より此方代々國王のなりて今に於て執柄五家門となる、由来實に久し。伊香津臣命當所に鎮座し給ふ事は.上世斯地湖水あり田里未興らず郡國何ぞ別たむ、但諸神の遊戯する所也。伊香津臣命子孫に告げて曰く、吾天津兒屋根の事を傳へて天照皇孫に侍従して久しく寶器を護る、尚此地に止まりて當に末代を護るぺし、即當郡伊香と名つく其神の名也.又人皇四十代天武天皇白鳳十年辛巳、氏を伊香宿禰豊厚と改め賜はりて則此地に封ぜらる。是より永く藤原氏と別也。一年弘法大師諸州に遍歴して神木霊草の區、處とし到らずといふ事なし。此地神異あることを知りて憩ひて勤念する事久し。或夜月の晴明なるに當りて、一女忽現じて社前の江畔より來る。大師怪み開ふ。答すらく吾は是斯地の神也、上人偶來て法施身に餘る是吾が幸福也、願くぱ上人此江隈を決して溜滞を却けよ。必吾本體を知らむといひ畢りて去らむと欲す。大師復問ふ、神何れの所にか止まる。答ヘて此澤の乾隅の尖き高き即是賤が嶽なりといひて去って復來らず。大師神勅に依て山陵を鑿つて渭水を涸らす、汚泥の中にゆいて尚推求すれぱ果して地藏薩埵の尊像を得たり、豈異人ならむや、彼神此菩薩なる事實に其知れり、則當社を建て神佛共に崇敬す。又人皇五十九代宇多天皇寛平七年乙卯管家の奏達に依りて當社を宏封して叡信甚篤し。菅相自法華經金光明經を書きて賓殿に納む、即勅額を賜ひて曰く、正一位動一等大社大明神金剛覚印菩薩と、又昌泰二己未年四月二十四日を以って祭禮と定む。封戸多ありといへども数度の兵災に罹りて悉く奪はる。就中天正年中柴田勝家、羽柴秀吉、戦闘の日、神社も兵火に罹りて神記鳥有となる。祭禮年中にニ十四度四月二十四日を隨一とす云々。今は四月六日のみを當社の祭禮とす。臣按ずるに縁起と號せる者。真贋相交りて採用し難し。然れ共所祭の神は伊香津臣命なり。【延喜式】神名帳に伊香郡伊香具神社とあるは此社也【三代實録】に曰く貞観元年正月二十七日甲申授近江國從五位上勲八等伊香神從四位下。貞観八年閏三月七日壬子授近江國從四位下勲八等伊香神從四位上云々と。
下の写真のように、杉の古木が多い。
入母屋造りの拝殿
本殿
社務所
この先の浄妙寺の影響下にあった事は、『近江輿地志略』の記述からも明らか。
神宮寺があった名残の池。
浄妙寺跡の大門と大日堂
浄妙寺は右下写真の背後の山の斜面にあった。
「天台薬師の池」だったはずの琵琶湖周辺だが(その後、真宗に席巻されるが)、伊香郡には菅山寺、鶏足寺、石道寺などかつては大寺だった真言宗寺院が目につく。
中世のものと思われる宝篋印塔。
粉かけ地蔵
千手堂
伊香三十三所観音霊場第17番札所になっている。
木之本町大音 の野神さん
余呉川右岸、大音の東端に位置する。