蛭谷・君ヶ畑
政所の茶畑。
住宅の周囲や斜面に小規模な茶畑が散在する。
蛭谷
道路から石段を上がると、まず筒井神社の拝殿がある。本殿はその左手の一段高い場所に南面する形で建っている。木地師資料館は拝殿の後ろにある。
木地師資料館
朱雀天皇の綸旨(とされる文書)
氏子駆帳(狩帳)
轆轤は手で廻すのが一般的だが、
足ふみタイプもあった。
丹羽長秀書き下し文
増田長盛書き下し文
筒井神社
右下の由緒によると、筒井神社は筒井峠から明治初期にここへ移されたという。
阿形の狛犬が咥えている玉は、後から入れたのではなく最初から彫ったものだとか。
君ヶ畑
ろくろ工房君杢
小椋昭二さん宅
高橋昌明著『湖の国の中世史』(中公文庫 2008)の「四、鈴鹿の杣山」によると、この一帯は院政期には摂関家領の小椋荘で、杣では杉を伐採しクレ(榑)という材木の中間材にして、愛知川が山間部から平野部へ出た地点にある山上の貯木場へ送られた。
金龍寺
曹洞宗寺院だが高松御所とされる。
京都御所に似ているという本堂。規模は小さいが"敢えて言えば"清涼殿を思わせるが、率直に言えば禅宗様だろう。享保十一年(1726)再建。
翁面
大皇器地祖神社
遠目にも、木々の様子からここが特別な場所だとわかる。
拝殿
拝殿、本殿ともに彫刻が素晴らしい。
本殿
真後ろの直立した杉。
御翠簾が下がっている。
惟喬親王を祭神とする。寛平十年(898)創建とされる。
拝殿、本殿ともに彫刻が素晴らしい。
神社境内に移った山の神。祠の後ろの枯れ木が山の神の木だろうか?
(蛭谷の?)山の神は谷底を流れる川のほとりに祀られていたが、産業廃棄物を投棄され水が汚れたので惟喬親王陵の近くへ移したという(『長老が教えてくれたこと』ありがとうボランティアグループ 非売品)。山の民の山の神といえば、山中に祀られるものだというイメージなので、川のそばに祀っていたというのは意外な感じがした。1月7日の山の講は「山火事や山での事故を防ぐためのお祭り。」と記されているので、いくら清らかな水のそばといっても腑に落ちない。もちろん生活用水として水が重要であったことは間違いないが、山からの湧水や、谷底の御池川へ流入する小河川が生活用水の主たる供給源であったと思われる。上に集落内の共同水場の写真があるが、ポンプがない時代でも、これと似たような場所が谷底まで下らずとも存在しただろう。そうすると、山の神はなぜ川端に祀られたのか。現在の水量からは想像しにくいが、御池川やそこに合流する小河川は、伐採しクレへ中間加工した材木を下流の貯木場へ流す運搬路として重要であり、渇水や洪水は林業を生業とする人々にとって重大問題であったという想像が可能だろう。しかし、この想像ではなぜ水神や龍神ではなく山の神が川のほとりに祀られていたのかの説明にはなっていない。
筒井峠
この彫像台座の周囲にあった銅板は盗まれたとのこと。残っている銘板からは1980年に作られたものらしい。
蛭谷へ遷座した筒井神社の旧地。
筒井千軒址
惟喬親王墓とされる宝篋印塔。中国から日本に宝篋印塔が伝わったのは鎌倉時代なので、慰霊塔と解釈すべきか。