音羽山清水寺(3)
泰産寺・子安塔
子安塔から音羽の滝へ行く途中には石仏群が見られる。
この伝福禄寿は、左の説明だと行叡居士だという。伝承として受け止めたい。
谷側には音羽稲荷大明神社・お塚などがある。
音羽の滝
役行者
制吒迦童子
不動明王
矜羯羅童子
左下の写真のように書いてあるという事は、二十八日午前七時からの勤行などで滝行が行われているということだろうか。
『清水寺縁起』では、報恩大師が大和国高市郡に天平宝字四年(760)に開いた子島寺の第二代延鎮が霊夢により北の清らかな水を求めて音羽の滝に来た。そこで夢に出てきた行叡居士に逢い霊木を渡され観音像を彫るように言われた。それを草庵に祀り滝行に勤しんだ。…というのが清水寺の起こりなので、ここで滝行をするのは縁起の趣旨に適っている。しかし、これほど開けっ広げな場所での日中の滝行は難しいのは明白で、うかがったところやはり夜間に来られるという。
阿弖流為(アテルイ)・母禮(モレ)の碑
『日本紀略』延暦廿一年(802)八月十三日に丁酉。斬夷大墓公阿弖利爲。盤具公母禮等。此二虜者。並奥地之賊首也。斬二虜時。將軍等申云。此度任願返入。招其賊類。而公卿執論云。野性獣心。反覆无定。儻依朝威獲此梟帥。縦依申請。放還奥地所謂養虎遺患也。即捉両虜。斬於河内國植山。
という記述がある。
延命院
舌切茶屋
忠僕茶屋
十一重石塔
近世の京都で活動した
の虎が描いてある。
能「田村」で前シテは東国から来たワキ僧の「南に当つて塔婆の見えて候ふは。いかなる所にて候ふぞ。」という質問に対し、「あれこそ歌の中山清閑寺。今熊野まで見えて候へ。」と名所案内する。清閑寺は相当な大寺だったらしいが、応仁・文明の乱で多宝塔などは焼亡してしまった。ただ、この多宝塔の位置は定かではなく、現清閑寺本堂の北側、後世に整備されたと思われる陵墓の辺りだとすると、清水寺からは見えない。