南千住
円通寺
雄
広尾の末日聖徒イエス・キリスト教会に聳えるキリスト像と競える聖観音像。
弾痕がいっぱい残っている上野から移設された黒門。黒門といえば、輪王殿にある本坊の黒門が浮かぶが、この黒門は西郷隆盛の銅像へ上がる南側石段の下、現在はカエルの噴水があるあたり、「袴越し」にあったという。
彰義隊戦士の墓
彰義隊の戦死者の遺体は、戦闘終結後も上野の山に放置されていたらしい。この寺の麿和尚が遺骸266体を上野山内で火葬しここに埋葬した。
首塚・七重の塔
下の石に「賊首」の文字が見える。源義家が奥羽征伐し賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築いたので、ここが小塚原と呼ばれる事となったとされる。
西光寺・金福稲荷神社
当金福稲荷神社は、文化七年江戸時代の史家林大学頭編纂による「新編武蔵風土記稿」中に、この近一帯は往昔「武蔵国中村」と称せられ、今から凡そ六百年前の貞和五年足利時代に現西光寺境内地に「金子福寿稲荷」として創建されたものと記録され、その後、天文年間に西光寺が建立され、この金福稲荷が由緒ある霊験あらたかな神として地元の崇敬の中心となっておりました。かゝる由緒深い稲荷神社が戦災後信仰深い有志の方々により昭和三十二年二月に西光寺境内に再建復元され、この度現在地に遷座いたし、益々地元の福祉と発展の守護神としてお祀りした次第であります。
昭和五十三年四月記
運千山真養寺
これが吉田勘兵衛の宝塔かな
萬冶二年(1659)に運千山自性院として創建され、寛永二年(1625)に創建された真養寺と元禄二年(1689)に合併し運千山真養寺となった。日蓮宗の寺。
宝永元年甲申の文字が見える。西暦1704年。
素盞雄神社
元々は午頭天王社と飛鳥権現が祭神名だった。午頭天王は「蘇民将来子孫也」の幡が立ち並ぶように、京都の祇園社(八坂神社)や津島神社と同系統の疫病退散のカミ。飛鳥権現は事代主のことで、「大国主神(だいこく様)の御子神です。別名を事代主神(ことしろぬしのかみ)・一言主神(ひとことぬしのかみ)といい」と御由緒に書いてあるが、大和国葛城の一言主の流れを引くと思われる託宣のカミ。
神楽殿
瑞光殿
瑞光殿の東側。子育祈願絵馬が並ぶ。
風鈴が下がっていて情緒たっぷり
瑞光殿西側の三境内社
昔は地蔵堂があったらしい。石造地蔵菩薩と隅飾が省略された宝篋印塔
中央の聖観音の庚申塔を本尊とするような配置になっている。
飛鳥社
ここにも小塚原の地名の由来が。
富士塚
子育て祈願の絵馬がかかる大銀杏
加藤雀庵文・長谷川雪旦画
森昌庵追慕の碑
芭蕉の句碑
千寿といふ所より船をあがれば
前途三千里のおもひ胸にふさがりて
幻のちまたに離別の
なみだをそそぐ
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」
羽黒三山の大権現供養塔
日光街道に面した東の鳥居
恵心院誓願寺
庚申塔
熊野神社
千住大橋
豊国山回向院
小塚原の刑場跡の浄土宗寺院。明暦の大火の犠牲者を葬った両国回向院の別院だったが独立した。
2017年7月28日に納骨式が行われた2007年の同日に亡くなったカール・ゴッチの墓。日本の多くのプロレスラーのコーチだった。
橋本左内と景岳橋本君碑。景岳は左内の号。福井藩士で松平春嶽に仕えた。十三代将軍徳川家定の後継者問題で、春嶽の意向に沿って一橋慶喜を擁立しようとしたのを、紀州徳川家の慶福(後の家茂)を擁立しようとした井伊直弼等と対立した。井伊直弼が大老となり勅許を得ずに日米修好通商条約が締結された。そのため朝廷は水戸藩に攘夷の密勅を下した。これに対し安政の大獄が起こり、左内は斬罪となった。
吉田松陰の墓
磯部浅一は二・二六事件を起こした"青年将校達"の扇動者といった位置づけか。昭和十二年に銃殺刑に処された。
この壇の上に並んだ墓が凄い…は不謹慎だろうか。
俗名鼠小僧
俗名高橋お傳。明治十一年、日本で最後に斬首刑に処せられた。
腕の喜三郎。喧嘩で斬られた片腕が見苦しいと子分に鋸で切り落とさせた侠客。
明和八年(1771)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵.・前野良沢らが、刑死者の解剖に立ち合ったという「観臓記念碑」
延命寺(首切地蔵)
小塚原の刑場跡だが、北西に常磐線、地下につくばエクスプレス、南東に貨物線とその上に地下鉄日比谷線というせせこましいところにある浄土宗寺院。首切地蔵は刑場の入口に寛保元年(1741)に造立された石仏。
延命寺は浄土宗寺院というが、お題目はもちろん近世の法華宗のもの。粟田口の刑場跡を思い出させる。