日岡峠(ひのをかのたうげ)
蹴上から山科へ東下りの最初の難所が日岡峠。道は東では無く、南南東の方向へ向かっている。
現在は
九条山に立ち寄り、玉姫大明神と、半跏で来迎印のお地蔵様にお参りして下る。
有名な廃屋
多分、左が下になる。
粟田口の刑場跡は、この「萬霊供養塔」と「南無阿弥陀仏」の石碑のあたりらしい。「萬霊供養塔」は山科の京都薬科大学と東海道を挟んで北側にある阿弥陀寺の住職が発願し、明治二十八年(1895年)に建てられた。「南無阿弥陀仏」は大正元年(1912年)に京津電気軌道株式会社ほか有志が建立した。この年の年末に古川町 - 札ノ辻間で京津線が開通している。そういう事で、いづれも明治以降に建てられたもの。
近世に法華宗寺院などが建てた供養塔(石碑)は、明治時代に行われた、峠を掘り下げて坂をなだらかにする道路拡張整備に使われ、それが三条通北側の擁壁などに残されている。
修路碑
明治八年から行われた道路拡張整備工事について京都府知事槇村正直が記した碑で明治十年(1877年)に建立された。
木食養阿は元文三年(1738年)まで三年に及ぶ「日岡峠人馬道」(牛車と人馬の歩車分離)工事に関与した。
石門心学者脇坂義堂が文化二年(1805年)に進言し、三条大橋東詰から大津八丁まで約12キロに花崗岩の敷石が敷設された。敷石の車輪が通る部分がすり減って
蝉丸神社の車石
三条通から旧東海道へ入る。
妙見道は山科区大塚南溝町にある妙見寺への道。
「亀の水不動尊」、「亀の口」の惨状
2015年6月現在の状態。囲われて立ち入り禁止の状態。
『都名所図会』に描かれている木食寺(梅香庵)がこの辺りだという(http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/
km_01_201_f.html 2015/6/15 確認)。
木食養阿(正禅)が設けた梅香庵は、峠道の管理と休憩所を兼ねていて、亀の口からの湧水を使った湯茶で旅人を接待したという。
山科へ下った日ノ岡地域包括支援センターあたりにある日ノ岡宝塔。
木食養阿が建てた「南無阿弥陀仏」の六字名号碑。木食養阿は真言宗の僧で狸谷不動院を開き。日岡峠改修の勧進も行った。
安祥院開基木食養阿(?~1763)は,享保2(1717)年に京都の葬送地や刑場(六墓五三昧)に慰霊のため「南無阿弥陀仏」の名号碑を建立した。この碑はその一で,粟田口の刑場に立てたものであるが,のち遺棄され,昭和8(1933)年の国道改修工事の際に折れた上半部のみが出土し現在地に据え置かれた。昭和40(1965)年に下半部を補い復元されている。
(https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/ya083.html 2015/6/15確認)
「京都府」の文字が読み取れる石柱