能登川町
法堂寺遺跡
7世紀後半の白鳳時代に近江では"爆発的に"寺院が建立された。大化二年(646)の薄葬令で古墳の築造が減少し、天武天皇十四年(685)に「諸国の家ごとに仏舎を作り乃ち仏像と経を置きて礼拝供養せよ」という詔が出たのち、地方の有力者は私寺として寺院建立を盛んに行った。この遺跡もその頃に建立されたものだろう。建物の配置は直線性に乏しいが、四天王寺式伽藍配置のようだ。
中門跡
塔跡
金堂跡
瓦溜まり
白鳥神社
『東近江市史能登川の歴史 第四巻』534頁に*1にまたかつて堤防に野神が祀られていたのも能登川地区では数少ない事例である。
という記述がある。時期はわからないが、その野神がここに移されている。この種村は安永の争論では大和郡山藩領の和田、神郷、種が彦根藩領の村々を京都町奉行所へ訴え、文化年間の争論では愛知川右岸神崎郡十五ヵ村から京都町奉行所へ訴えられた左岸の三村(和田、神郷、種)の一つである。愛荘町川原にある御崎神社は安永の争論で処刑された人々を慰霊するため堤にあった野神を遷座したという。文化年間の争論時に作成された「愛知川筋出入提出絵図」(改修前・後)にもこの野神は描かれている(そこは大和郡山藩領の田畑と色付けされている部分の南端だが、この田畑と色づけされた一帯は現状では工場や分譲住宅地で、1920年の2.5万地形図(96-13-2-1 )では針葉樹林なので、当時も耕作地として実際に耕されていたとは考えにくい。)。したがって、白鳥神社に移されたのはその後であろう。
本行寺
浄土真宗本願寺派寺院。
乎加神社参道の大灯籠
東近江市佐生町
引用文献・参考資料
- *01 東近江市史能登川の歴史編集委員会/編『東近江市史能登川の歴史 第四巻』東近江市 2012