南小松・北比良
ほぼ同様の図様を有する絵図が滋賀県滋賀郡志賀町小松区の個人 (以下、「北小松図」と呼ぶ )、同町北比良区 (以下、「北比良図」と呼ぶ )、それに同町南比良区 (以下、「南比良図」と呼ぶ )に各一点ずつ伝来する。図像の描写などから判断して三点の作成時期はすべて異なり、「北小松図」と「北比良図」は室町時代後期に、また「南比良図」は元禄九年 (一六九六 )に写されたものである。すべてが弘安三年 (一二八〇 )付と永和二年 (一三七六 )付の二つの裏書を有する。
〔*1 121頁〕
左の「北小松図」には、AとBの二つの境界と思われる線が引いてある。これらが、比良新庄(現、北・南比良)と小松荘(現、北・南小松)が各々主張した境界だろうか。
近江舞子内湖の南西。湖岸の湿地の景観が残っている(ような)。寛永15年、北小松と葭地をめぐる相論があった(伊藤文書)。
〔*2 664頁〕
八幡神社
一本杉、観音堂
観音堂 由緒
村境(現、南小松町と北比良町)
御霊社
現地を歩いて一番驚かされたのが、この御霊社。13~14世紀の絵図に描かれている御霊社がこれだとすると、その位置は当時から変わっていないのかが問題になる。現地は、北比良に属しており、その点は「北比良図」と一致する。現在の南小松と北比良の境は、近世の村境だろうが、北比良の村域が、国道161号のバイパスあたりからこのあたりまでだけが不自然に北に食い込んでいるのが気になる。
樹下神社(南比良)、天満神社(北比良)
滋賀県神社庁のウェブサイトに、元和八年比良村が南北に別れ、明治五年樹下神社(十禅師)を南比良村、天満神社を北比良村の氏神と定め境内を両分した。
とある(http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=128)。徹底して二分割されている。
高向朝臣公輔は、乳母との密通により還俗させられる前は、比叡山の阿闍梨だった《卷卅八元慶四年(八八〇)十月十九日己亥》○十九日己亥。散位從四位下高向朝臣公輔卒。公輔者、右京人也。少年出家、被緇爲僧。住延暦寺。学眞言教、尤精義旨、爲阿闍梨。仁寿中徴侍東宮、私通乳母、事漸發露。太政大臣忠仁公聞之、遂令還俗。叡山中諸徳、愛爲法器、甚歎惜之。貞觀元年三月廿六日、授從五位下、爲皇太后宮大進。八年遷式部權少輔、九年増從五位上。是年改權爲眞。十六年叙正五位下、元慶元年至從四位下、先爲讃岐權守。卒時年六十四
〔日本三代實録〕。高向公輔の僧名は、運慶の子の仏師湛慶と同じ湛慶で、この宝塔は、なついた白鹿の墓という伝承になっている(高山寺に湛慶作の雌雄の鹿の像がある)。
- *01 小山靖憲, 下坂守, 吉田敏弘/編『中世荘園絵図大成 第1部中世荘園絵図の世界』河出書房新社 1997
- *02 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 25 滋賀県』角川書店 1979