南三吉地区
久礼の一里塚の跡。この位置は一里塚があった場所とはずれているらしい。
東番場 に入る
米原への分岐
「米原汽車汽船道」と書いてある道標。
問屋場跡と脇本陣跡
本陣跡
「
問屋場は
八葉山蓮華寺
浄土宗の寺。開基は聖徳太子でその当時は法隆寺と称したという伝説がある。
一向俊聖が弘安七年(1284年)頃に鎌刃城主だった土肥元頼に招かれて再興した。
中山道からは名神高速道路の高架下を通り抜けて行く。
4月にはミツバツツジがきれいだとか。ツツジは低木というイメージが強いが、かなり高くなるようだ。
本尊は鎌倉時代の作とされる寄木造の釈迦如来立像と阿弥陀如来立像。右に一向俊聖座像。
一向俊聖は一遍と同じ暦仁二年(1239年)に筑後で生まれ、最初は姫路の書写山円教寺で学び、後に鎌倉の蓮華寺で浄土宗第三祖
本堂の内陣左側に踊躍念佛の鉦があった。
土肥元頼の宝篋印塔
この寺で一番知られているのが、六波羅探題の北条仲時以下四百三十余人が自刃した武士を供養した墓石群。住持だった同阿が『陸波羅南北過去帳』(国の重文)にその名と法名を記している。ただしこの過去帳には(名前が判明した?)189人しか載っていない。
一向上人は弘安十年(1287年)11月18日の亥の刻に立ち往生したという。
北条仲時以下の墓(供養塔と考えるべきか)と一向上人廟までの坂には、他にも多くの小型の石仏や五輪塔がある。
鎮守が山王日吉神社というのは、天台宗っぽいが…
一向杉
忠太郎地蔵と忠太郎供養の五輪塔
股旅物作家の長谷川伸(1884年~1963年)が昭和五年(1930年)に発表した『瞼の母』の主人公忠太郎の出身地が番場に設定されている。
架空の人物なのに供養塔まである。周りの石柱には新国劇の島田正吾などの名がある。
昭和三十三年に建立された。(愛知県)岡崎石工の成瀬大吉(189442年~1976年)作による顔立ちの良い地蔵尊。
弘安七年十月の銘があるという梵鐘
本堂前には斉藤茂吉の歌碑や、叡願の梅などもある。
(井伊)直孝神社
鎌刃城跡の案内板
北野神社
西番場から摺針峠へ。
名神高速道路はトンネルだが、歩く人はそのトンネルの上の高さまで登らなくてはいけない。
小摺針峠のお地蔵さんと泰平水
いよいよ摺針峠を越えて鳥居本宿へ