東から醒井宿へ入る手前にある仏心水。
それほどの眺望とは思えなかった鶯ヶ端。やはり背後が高速道路だからだろうか。「京都の空が望める」と言っても、市街は見えるはずもなく、あくまでも「あそこら辺の下が京都だ」という程度だろう。それでも東国から来た人が感無量だった気持ちはわかる。
柏原宿から中山道を歩くと左写真の突き当りに出て、そこを右に曲がると左下の「中山道 醒井宿」の石碑が立つ交差点に出る。左折して右奥の道に入ると醒井宿に入る。
上の交差点を左下方向に歩くと国道21号線に出る。国道沿いに少し北東に歩くと石仏「馬頭観世音」と書いた石碑が立ってる。
加茂神社は醒井の氏神だという。(実際は産土神か?)
元々は背後の山の杉木立の中にあったが、名神高速道路で参道を遮断されてしまうため、現在地へ遷座したとのこと。
『古事記』中卷に故爾御合而、以其御刀之草那藝劒、置其美夜受比賣之許而、取伊服岐能山之神幸行。
とある「居寤淸泉」。
於是詔、茲山神者、徒手直取而、騰其山之時、白猪逢于山邊。其大如牛。爾爲言擧而詔、是化白猪者、其神之使者。雖今不殺、還時將殺而騰坐。於是零大氷雨打惑倭建命。此化白猪者、非其神之使者、當其神之正身、因言擧見惑也。故、還下坐之、到玉倉部之淸泉以息坐之時、御心稍寤。故、號其淸泉、謂居寤淸泉也。
『日本書紀』巻第七では、日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月。於是、聞近江五十葺山有荒神、卽解劒置於宮簀媛家、而徒行之。至膽吹山、山神、化大蛇當道。爰日本武尊、不知主神化蛇之謂「是大蛇必荒神之使也。既得殺主神、其使者豈足求乎。」因跨蛇猶行。時山神之興雲零氷、峯霧谷曀、無復可行之路、乃捷遑不知其所跋渉。然凌霧强行、方僅得出、猶失意如醉。因居山下之泉側、乃飲其水而醒之、故號其泉、曰居醒泉也。
の「居醒泉」。
蟹石がある「居醒の清水」は地蔵川の水源になっている。右下写真の説明のように蟹石だけは日本武尊とは別の伝承がある。
鞍懸石
腰掛石
紫色燈籠
醒井延命地蔵の左わきには多くの石仏
醒井延命地蔵
総高270cmの石造地蔵菩薩半跏像。
左下写真の説明のように、これだけの大きさの石造のお地蔵さんは珍しい。以前は、地蔵川の中に置かれていたとか。
水槽で飼われているハリヨ
醒井公会堂
本陣跡
醒井小学校の玄関
ヴォーリズ建築事務所による郵便局
法善寺
浄土真宗大谷派
法善寺へ入る路地の左側の屋敷跡。この門だけは保存してもらいたいものだ。
了徳寺の「おはつきいちょう」。葉に銀杏の実が付く。寺は浄土真宗本願寺派
十王水。昔、十王堂があったとか。十王とは地獄で死者の審判を行う閻魔様を含む十王のこと。
ここらが高札場跡
子供狂言上演場所。地蔵盆に曳山を引いて子供狂言を奉納したと書いてある。現在の地蔵盆では「つくりもん」が人気。
西行水。
これが泡子塚らしい。
地形的に醒ヶ井の集落は山麓に沿って流れる地蔵川の両岸に形成されているので、山側の麓は湧水が豊富だと思われる。
左下に泡子塚の由来が書いてある。
西行が飲み残した茶を飲んだら懐妊したというのと似た話は『古事記』の時代からあるが、生まれた子に「我が子ならば元の泡に帰れ」と祈ったら、泡になってしまったという結末は都合良すぎる勝手な話という感じがする。それがこの話が出来た時代の実態だったということか。
下丹生・上丹生、醒井養鱒場方面へ行く県道17号線との交差点。
この道標よりも醒井宿はもう少し続く。
六軒茶屋。左下の説明のように享保九年(1724年)から醒井宿は大和郡山藩領で、その境の醒井側に右下写真の手前のような家が六軒並んでいたらしい。しかし、大和郡山藩は近江の交通の要衝を押さえていたと言えるのではないだろうか。(五個荘 海津)
「一類孤魂等衆」の碑。旅の途中で亡くなった人を弔うために建てられたとか。
『日本書紀』の天武天皇元年(672年)七月に「男依等与近江軍戦息長横河破之」とある。
樋口村は、宿場間の小休憩所でお茶屋があった。