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西光寺


 

空也上人廟



石塔寺の石塔を模したのか?

拾遺都名所図会』によると、中に石の容器があり空也上人の遺骨が納められているとか…?



碑文は下部が欠落していたりして読み取れない部分も多いが空也上人の生涯について書いてある。二行目に「支那国□臨済三十四世」と書いてあるのは黄檗山萬福寺第五代住持の高泉性潡の事だろうか。天和三年(1683年)の日付とは符合している。

 


大黒山金剛寺八坂庚申堂

天台宗寺院。平安時代、三善清行の子の浄蔵が開いたとか。浄蔵は祇園祭の山伏山に乗っている。浄蔵はこのページの下の八坂の塔で引用する『山城州東山法観禅寺仏舎利塔記』では雲居寺にいた時期もある。(Cf. 稲荷山の浄蔵
庚申日に徹夜する庚申待を現在も行っており、コンニャク焚きの接待もある。




本尊は青面金剛像で、脇侍が四大夜叉、不動明王、弁財天、地蔵菩薩、大黒天、大聖歓喜天、天神、賓頭盧尊者、更に三猿と盛りだくさんなところが民間信仰の歴史と実態を感じさせる。


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八坂の塔

霊応山法観禅寺は臨済宗建仁寺派の寺院。古くは八坂寺だった。
曾孫引きになってしまうが「怪異・妖怪データベース」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiDB2/index.html)に登録されている「伝承文学研究」52号に掲載された西山美香氏の『室町幕府初期政権における法観寺八坂塔、利生塔の<縁起>としての聖徳太子・浄蔵説話』という論文は「いまだ山城国に都がなかった時、聖徳太子の夢に如意輪観音が出現し、この山城国の東山の地は寺塔を建立するのに大変すばらしい土地であり、必ず建てるべきであると伝える。実際聖徳太子が東山を見ると、紫雲が立ち昇っていたので、ここに法観寺と寺塔を建立し、塔に仏舎利を三粒納めた。」という記述を『山城州東山法観禅寺仏舎利塔記』からの引用として紹介している。(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/1350303.shtml 2015/03/01確認)その他、『山城州東山法観禅寺仏舎利塔記』には「天暦二年(947)、山城国東山にある法観禅寺の仏舎利塔(八坂塔)が、乾(北西)の方向つまり王城(平安宮)に向かって傾いた。時の村上天皇や群臣・百官は、それを何らかの凶兆と考え憂いた。」という話も載っている。(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiCard/1350304.shtml 2015/03/01確認) これを現在の高台寺の辺りにあった雲居寺の浄蔵が「其夜藏坐露地、向塔持念。已還房。」と念じて元に戻したという。(『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ http://www.zenbunka.or.jp/data/text/entry/post.html 禅文化研究所の黒豆データベース))
森浩一著『京都の歴史を足元からさぐる[洛東の巻]』(学生社 2007年)によると、飛鳥時代後期の瓦が出土したという。聖徳太子創建の伝承はあるものの、渡来系の八坂氏の氏寺として創建されたという説が妥当な感じがする。瓦の年代から7世紀後半だろうか?
高さ46メートルの五重塔(重文)は永亨十二年(1440年)足利義教の再建。





2015年2月、八坂庚申堂の方から八坂の塔の宝輪の上から三番目にカラスが巣を作ったと教えられた。針金製のハンガーが見える。これを取り除くのは大変そうだ。


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