観音正寺、観音寺城跡と桑実寺
2011年6月
観音寺城跡
観音寺城の石垣は安土城よりも40年位先に造られたとされているが、成安造形大学附属近江学研究所が出している近江学研究所紀要「近江学」第3号に長浜城歴史博物館長の中井均氏が書いている「近江の城物語」では、「…城郭以前の観音正寺の遺構として理解すべきではないだろうか」という見方が示されてた。
「観音正寺の寺伝によると元来繖山にあった寺院が永禄年間(1558~70)に山麓に降り、観音寺城廃城後の慶長年間に再び現在地へ上がってきたものと伝えている。直線的な登城道とその両側に規則的に展開する曲輪群は永禄年間に山麓に降りる以前の観音正寺の坊院群を利用したものと考えられ、そうした寺院配置で飽和状態となったところに城郭の主要部を配したため本丸、平井丸、落合丸、池田丸が頂上部ではなく、繖山の北端部の尾根に築かれたものと考えられる。」という見方で、たしかに、金剛輪寺など湖東三山は本堂への直線的な道の左右に僧房を配した造りになっている。
ただ、金剛輪寺文書は1536年に「御屋形様御石垣打」とする記述があり、これは観音正寺が山麓に降りる20年以上前という事になる。そうするとこの石垣はどこを示しているのだろうか?観音寺城では15世紀に応仁・文明の乱の戦闘があり、さらに室町幕府軍にも攻められているが、どの程度の城だったのかはよくわかっていないようだ。その後、16世紀前半は足利幕府12代将軍義春を桑実寺に幕府の組織ごと迎えるなど、六角
現状は、観音寺城の本丸への「直線的な登城道」であるべき大手道は谷間になっていて、遺構もかなり破壊されてしまっている。結局"観音正寺の坊院群を利用した"ものかどうかは、曲輪の下の地層から坊院の遺構が出るなどしないと検証は難しいだろう。
観音正寺から見ると応仁・文明の乱に際し、近江国守護職・佐々木六角氏がこの山に居城を築いたため、寺は兵乱に罹ったり、山麓に移されたりするなど苦難の路を辿ることとなった。その後、永禄十一年(1568)、織田信長により六角氏が滅ぼされたため、慶長二年(1597)、再び山上に堂塔が営まれることとなった
(http://www.kannon.or.jp/profile.html)と迷惑そうな表現になっているのは当然だろう。
観音正寺から左手に下る道を北西に進みます。
城の石段跡か?
伝本丸跡。山頂ではありません。
観音正寺城は、本丸、一の丸、二の丸といったその後の平城のイメージとはかなり異なり、小さな区画に家臣たちの屋敷が建っていて、丘陵に無理やり宅地造成したような眺めだったようだ。
従って篭城するといった戦い方ではなく周辺の支城との連携が命だったらしい。それが無理な状況ならばさっさと甲賀へ逃げた(足利義尚、義稙、織田信長に攻められた時)ということ。
前夜雨が降った6月の蒸し暑い日の伝本丸跡から桑実寺への下り道は滑りやすく蚊が多くて閉口させられた。
繖山桑実寺
登山道から境内に入ってすぐにあるのは大子堂。現在は経堂。
鎮護三社。
左からスサノオ、大黒天、クシナダヒメ。
大黒さんはスサノオ・クシナダヒメの子供だか子孫とされているので、ここはスサノオファミリーを祭神としている事になる。
「影清の背くらべ石」
ここにも平景清。
ここでは眼病平癒のため京都から通った事になっている。(本当ならば背が低い。)
檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が美しい室町時代初期築の重文の本堂。
昔の祠が朽ちてしまい新設したといった雰囲気。
寺務所の脇から左手に行った先にある石塔(五輪塔?)。
石段、石組が整っていて幕府があった頃を忍ばせる。足利義晴の将軍御所は正覚院にあった。
桑実寺の重要文化財は本堂の他に、足利義晴が発願し
内容は、聖徳太子から天智天皇と
寺の南東にある安土瓢箪山古墳のお地蔵さん。瓢箪山古墳はその名が示すように前方後円墳。
今回、この石段は下ってしまったが、これを上がり更に観音正寺まで登るのはかなり大変そうです。