安土
安土城考古博物館、信長の館
沙沙貴神社
浄厳院
安土城跡
摠見寺
老蘇の森・奥石神社
観音正寺
観音寺城跡
桑実寺
安土城考古博物館(Azuchi Museum)と信長の館
安土城考古博物館は常設展示が古墳時代までの部屋と安土城を中心とした城郭の展示という、地元的にはもっともだけどなんかばらけた感じの内容。
発掘物の調査・研究を行っている大部屋を中庭側のガラス窓越しに眺められるなど、開放的なのが良い感じ。
信長の館の中には安土城天主閣の最上部5、6層目を復元したものが建っている。
安土城考古博物館の北端に立っている安土町常楽寺にあった駐在所。
常浜
錠の橋辺り
沙沙貴神社
近江源氏の家紋と言われるが異論もある平四つ目の目結紋がやたらと目につく。
大松明行事所
楼門
境内のあちこちに色々多彩な趣向が見られ、サービス精神旺盛。
主祭神はスクナビコナ(少彦名神)。『古事記』上卷に故、大國主神、坐出雲之御大之御前時、自波穗、乘天之羅摩船而、內剥鵝皮剥爲衣服、有歸來神。爾雖問其名不答、且雖問所從之諸神、皆白不知。爾多邇具久白言自多下四字以音「此者、久延毘古必知之。」卽召久延毘古問時、答白「此者神產巢日神之御子、少名毘古那神。」自毘下三字以音。故爾、白上於神產巢日御祖命者、答告「此者、實我子也。於子之中、自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音。故、與汝葦原色許男命、爲兄弟而、作堅其國。
と登場し、故自爾、大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也。
大国主と共にこの國を作り堅めたのちに常世國へ帰ってしまう。天之羅摩船の「羅摩」は「蘿摩」でガガイモの事だという。その果実が割れて種を飛ばすが、その割れたものが船の形に見える。
Cf. 北海道開発局帯広開発建設部・十勝の川の生き物たち・危険な生き物リスト・食べると危険・ガガイモ「地下茎は有毒」と書いてある。
拝殿
本殿
スクナビコナが乗ってきた天之羅摩船!
権殿とされているが、仮殿ではなく佐佐木源氏所縁のほぼ実在の人達を祀っている。置目姫命は『日本書紀』巻第十五の、即位前の雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の遺体が埋められた場所を、押磐皇子の子の顯宗天皇に教えた「置目、老嫗名也。近江国狭狭城山君祖倭宿禰妹。」のこと。『古事記』にも在淡海國賤老媼、參出白 王子御骨所埋者、專吾能知。亦以其御齒可知。
と同様の記述がある。『紀』によると、押磐皇子暗殺に関与したとして狹々城山君韓帒宿禰から剥奪した狭々城山君の姓を置目の兄・倭帒宿禰に与えた。狭々城山君はこの地方を本拠とした豪族で、近江源氏の祖という説もある。
本殿・権殿の向かって左から裏側にかけては境内社
ワタツミ、稲荷、加茂、八神、愛宕社と並ぶ。
毎年の恵方に回転できる歳徳神。社が恵方を向いている。
本殿の裏には十二支が並んでいるが、そこから個人的好みでピックアップ。
武佐宿道標
沙沙貴神社の蝋梅
浄厳院
佐々木氏頼が菩提寺として建てた慈恩寺の旧地に、織田信長が創建した。
浄土宗と法華宗との間で行われた安土宗論(安土問答)の舞台となった寺。
- 『信長公記』巻十二 (天正七年) 近代デジタルライブラリー - 信長公記. 巻之下のコマ番号=7~9
法花・浄土宗論の事 (読み下しもどき)
五月中旬の事に侯。関東より浄土宗霊誉と云ふ長老、上国候て安土町にて談儀をのべられ候。法花衆建部紹智・大脇伝介両人説法の座へ罷出、
不審を懸け申侯。長老申さるゝ様、若輩の旁 へ、ひらきを申し侯とも、仏法の上更に耳に入るべからず。所詮両人の憑まれ侯法花坊主を出だされ侯はゞ返答
申すべしと返事侯て、七日侯はん法談の、十一日迄のべられ侯て、法花かたへ使を立てられ侯。法花衆も宗論いたし侯はんと申し侯て、京都より長命寺の日光・
常光院・九音院・妙顕寺の大蔵坊・堺の油屋弟坊主・妙国寺不伝、歴々の僧衆、都鄙の僧俗、安土へ群れ集まり侯。此の旨、聞食及ばれ、御前に御祗候の衆も、余多
法花衆御座侯。信長公御諚として御扱なさるべく侯の間、無事尤の由、菅屋九右衛門・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹、此れ等を御使として仰せ出だされ侯。
浄土宗は何様にも上意次第の旨、御請け申され侯へとも、法花方より勝に乗つて同心これなく、既に宗論に究 。其の時、左侯はゞ判者を仰せ付けらるべく侯間
書付を以て勝負を御目に懸け侯へと御諚侯て、五山の内にても物知に侯日野の秀長老召上せらる。折節、因果居士参られ侯。是れも相副へられ安土町末浄土宗の
寺浄厳院仏殿にて宗論あり。寺中御警固として、織田七兵衛信澄・菅屋九右衛門、・矢部善七郎・堀久太郎・長谷川竹、五人仰せ付けらる。法花宗は、生便敷 結構に出立
長命寺日光・浄光院・九音院・堺の油屋弟坊主・妙国寺不伝、妙顕寺の大蔵坊、筆執にて、法花八軸に硯・折紙を取り持ち、出でられ侯。浄土宗は墨衣にて
如何にも左道なる仕立、関東の長老・安土田中の貞安長老二人、是も硯・折紙を持ち侯て出でらる。関東の貞誉長老は、予の云為に侯間申すべしと仰せられ侯を、
田中の貞安早口にて初問を置かれ、其より互の問答を書き付ル。
貞安問云、法花八軸ノ中ニ念仏有ヤ。
法花云、答、念仏コレアリ。
貞安云、念仏ノ義アラバ、何ゾ無間ニ落ル念仏ト法花ニ説カ。
法花云、法花ノ弥陀ト浄土ノ弥陀ト一体カカ、別体カ。
貞安云、弥陀ハ何クニ有ル弥陀モ一体ヨ。
法花云、サテハ何ソ浄土門ニ法花ノ弥陀ヲ捨閉閣抛卜捨ルヤ。
貞安云、念仏ヲ捨ヨト云ニ非ズ、念仏ヲ修スル機ノ前ニ、念仏ノ外ノ捨閉閣抛ト云フナリ。
法花云、念仏ヲ修スル機ノ前ニ、法花ヲ捨ヨト云フ経文アリヤ。
貞安云、法花ヲ拾ルト云フ証文コソアレ、浄土経ニ云フ善立方便顕示三乗ト云々。又、一向専念無量寿仏云々。法花ノ無量之儀経ニ方便ヲ以テ四十余年
未ダ真実顕セズト云ヘリ。
貞安云、四十余年ノ法門ヲ以テ、爾前ヲ捨テ方座第四ノ妙ノ一字ハ、捨ルカ、捨ザルカ。
法花云、四十余年四妙ノ中ニハ、何ゾヤ。
貞安云、法花ノ妙ヨ、汝知ラザルカ、此ノ返答、コレナク閉口ス。
貞安亦云、捨ルカ、拾ザルカヲ、尋ネシトコロニ、無言ス。其時、判者ヲ始メ、満座一同ニ瞳ト笑テ、袈裟ヲ剝取。
天正七己卯年五月廿七日辰の亥、
関東ノ長老、扇を披き立って、一舞まはれたり。長命寺日光、妙ノ一字にツマリ、打擲せられ、八軸の経王も見物の者ども、手/\に破取り、法花衆、四方へ、
ばつと逃散り候。口々渡り/\まで追手を懸け、少々止置、宗論勝負の書付備へらるゝ、上覧にところ、即ち、信長公時刻を移さず、午の刻に御山下なされ、
浄厳院へ御座を移され、法花衆・浄土宗先づ召し出だされ、関東の霊誉長老へ御扇を出だされ、田中の貞安長老へ御団を下され、御褒美斜ならず。秀長老へは先年堺の者
進上仕り侯東坡が杖参らせられ候。去て大脇伝介召し出だされ、仰せ聞けらるの趣、一国一郡を持つ身にても似合はざるに、おのれは大俗と云ひ町人と云ひ、塩売の身
として、今度長老の宿をも仕り候間、贔屓をば仕侯はで、人にそゝのかされ、長老へ不審申し懸け、都鄙の騒ぎ不届の次第條々、御諚侯て先づ頸をきらせられ、又、
普伝召し出だされ、度々近衛殿御雑談ノ様子仰せ聞けらる。普伝、九州より罷上り、去る秋より在洛侯。一切経の内、何れの所に、如何様の文字これありと、
中にて申す程の物知りの由侯。但し、何宗ともなく侯。八宗顕学仕り侯中には、法花衆能 宗の由、常々申し侯て、信長申し侯はゞ、何れの門家にもなるべしと申し侯。
行義は、普伝、或る時は紅梅の小袖、又、或る時は薄絵 の衣装などを着して、己れが着たる破小袖、結縁と申し侯て、人にとらせ侯由、近衛殿仰せられ侯。後に能々
聞食及ばれ侯へば、殊勝がほに聞侯へども、かり小袖にて作物仕り侯。か程物知りの普伝さへ聞き入り、法花衆になられ侯と申し侯はゞ、法花繁昌たるべく侯間、懇望
せられ、属詫を取り、日蓮党になり侯はん巧み、老後に及び虚言をかまへ似合ず。今度法文に勝ち侯はゞ、一期進退なり侯様に仕り候はんと、
属詫堅約にて法花に憑まれ、御届をも申し上げず、罷下り、日比の申し分相違、曲事の由、御諚侯。其の上不伝は、法文申さざる先、人に宗論いはせ、
勝ち目に侯はば罷出づべしと存知、出でざる事、胸の弱き仕立、相届かざる旨、条々聞かれ、普伝をも頸を切らせられ、残る歴々僧衆へ仰せ出ださるゝ様、
揔別諸侍軍役日々勤め、迷惑仕り侯に、寺院結構に仕り、活計を致し、学文をもせず、妙の一字のツマリ侯と事、第一曲事に侯。さ侯へども、法花衆は、
口の過ぎたる者に侯。後日宗論負け申したるとは、定めて申間敷侯。宗門をかへ、浄土宗の弟子になり侯か、然らずんば、今度宗論負け申す上は、今より以後、
他宗を誹謗仕る間敷の旨墨付を出だし侯へと上意のところに即ち御請け申し
敬白起請文の事
一、今度、江州浄厳院において浄土宗と宗論仕り、法花衆負け申すに付いて、京の坊主普伝幷に塩屋伝介に仰せ付けられ候事。
一、向後他宗に対し、一切法難いたすべからざるの事。
一、法花一分の儀、立置かるべきの旨、忝く存知奉り侯。法花上人衆、一先牢人仕り、重ねて召し置かるゝの事。
(天正七)五月廿七日、法花宗
上様 浄土宗
此のごとき誓紙進上侯。然して宗論負け申し侯と書出し、負の字、不思議の女童迄も末代において聞知事に侯。替の詞、如何程もこれあ
るべきを、越度仕侯と、歴々の僧衆後悔仕侯由、承及侯なり。又、諸人、是れを笑物に仕侯。又、建部紹智、堺の津まで逃げ行き候ひしを、追手を懸
け搦取、今度、大脇伝介・建部紹智両人の云為 に依つてかくのごとく候間、是又、頸をきらせられ候。
鐘楼
楼門 (国の重文)
本堂 (本尊の阿弥陀如来坐像と共に国の重文)
近江八幡多賀村の興隆寺弥勒堂を移したもの
美しい建物だ。
近江八幡多賀は日牟禮八幡宮の東側で、興隆寺も現存する。信長が浄厳院に金勝山から浄厳坊明感を招いたのは天正五年で、当然、羽柴秀次が近江八幡に入る天正十三年よりは前の事。天正五年の近江八幡はどのような地だったのだろうか?
釈迦堂(茶処?)
北東一帯は墓地なので、そこの石塔だったのだろう。
庫裏・書院
観音堂
安土町香庄
滋賀県教育委員会文化財保護課編『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』*2に安土町香庄の野神祭りが記載されている。香庄は安土駅西側の安土町常楽寺の南西に接し、山本川を渡った先にあるこじんまりとした集落で、その田地は集落の北西に伸びている。
安土町常楽寺(町名)にある行安寺
行安寺は老人憩いの家と常楽寺会館に挟まれた無住の観音堂で、観音講が管理しているという。上記調査報告書の記述によると、8月18日午前に香庄の区長・区長代理・年番の3人が行安寺へ「お礼参り」に行く。何のお礼かについては2説紹介されており、(1)疫病が流行した時、観音様を拝んだら収まった、(2)戦の時に匿ってもらった、というもので、どちらもありそうな話に思える。
「新開の森」は香庄の田の先にある圃場整備された田圃の中に浮かんだような一画で常楽寺の町域に属する。織田信長により死罪とされた女房衆の死体を埋めた「死骸の森」という伝承もあるとか。
道路からの道を入って行くと、中央付近はちょっとした広場になっている。「今宮大明神天満宮御旅所」の石柱が立っているが、ここからすぐ西南の浅小井町にある今宮天満宮神社の「御旅所」だったという。今宮天満宮神社の主祭神はスサノヲ、従って元は牛頭天王社だったようで、7月半ば過ぎに祇園祭が行なわれ、宵宮の松明、曳山巡行で知られる。
8月18日午後に香庄の3役員は「新開の森」へ行く。ここで藁三束に火をつけて清めてから、区長と区長代理が相撲をとり、年番が行事として引き分けを宣言して祭りは終わるという。
裏に回ると石仏の祠と殉職?した方々の石柱。
上記の調査報告書でも指摘しているように、どこが「野神祭り」なのかよくわからないが、「御旅所」の石柱の左右(右は枯れているが青竹の後ろに見える。)の木にその面影を感じた。