如意寺跡を求めて
如意寺は遅くとも10世紀には存在し、応仁・文明の乱で焼亡した。
桓武天皇の玄孫にあたる
しかし、最盛期の如意寺を築いたのは、鎌倉時代の僧
最盛期の様子は園城寺蔵の「園城寺境内古図」から窺う事ができる。
この伽藍は建武二年(年)正月、東国から攻め上がってきた新田義貞・北畠顕家・延暦寺山門と、京の足利尊氏側についた園城寺との戦いで焼失する。『太平記』巻十五「三井寺合戦並当寺撞鐘事付俵藤太事」によれば、「山門の大衆は、二万余人、大略徒立なりければ、如意越を搦手に廻り、時の声を揚げば同時に落し合んと、鳴を静めて待明す。」、「一の木戸已に破ければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ懸入て、先合図の火をぞ揚たりける。是を見て山門の大衆二万余人、如意越より落合て、則院々谷々へ乱入り、堂舎・仏閣に火を懸て呼き叫でぞ責たりける。」と、山門の大衆は如意越を通って園城寺の背後から攻め込んだ。園城寺側は敗れ、新田義貞の軍は更に京で足利尊氏軍を破った。この後、足利尊氏は九州で態勢を立て直して、再度攻め上る事になる。
参考にしたのは、「京都伝統文化の森推進協議会」のWebサイトにあった、平安京周辺の山林寺院跡と戦国期山城跡の実態視察の当日配布された資料と、金沢大学学術情報リポジトリKURA『山間寺院の特質』という論文。後者の図2の地図はかなり詳細な地図なのだが、その地点を割り出すには、前者の2万5千分の1の地図を使ったと思われる2ページ上の地図を参照するしかなかった。
比叡平から出発。いきなり「園城寺風致地区」と、風致地区といえど園城寺の勢力圏。朝の林道は、比叡平の住人が犬を散歩(犬を連れて人が散歩?)させているのを見かける。
池ノ谷地蔵尊。ご本尊は石仏。
油掛け地蔵
池ノ谷地蔵尊前を通り抜け、更に林道を行く。ここは左に上がる道を行く。
雨神社。ここは如意寺の鎮守社の赤龍社があったところ。
かつてはもっと大きな池であったのが、土砂の堆積で今は小さな湧き水のようになってしまっている。
朝の散歩をしているおばさんに雨神社の位置を尋ねたら、地元では雨社さんと呼んでいると言われた。
雨神社の脇を右に少し上る。
右に行く道と、左に行く二つの道の角に出るので、まず(1)へ。
次の分岐点では、本堂跡へ行きたいので(3)へ。
道なりに行くと本堂跡の上を周るかたちになる。
ここらから道ではないが緩やかな傾斜の右の方を下ってみる。
平地に出る。お堂を建てるには十分な広さがある。中央を二筋の渓流が通っていたが、降雨後だけできる流れかもしれない。
ここらは常行堂跡のはず。
谷の一番奥には本堂跡の基壇らしい盛土が見られる。
道から見下ろすと、こんな感じ。写真ではわかりにくいが、『山間寺院の特質』の図2の地図と合っている。
平地の先は急な崖で、そのすぐ手前に三重塔が建っていた。
(2)の道を行った右下にも削平地らしい平地が見える。
この谷は削平地らしいが、雛壇のような形で、それぞれの平地面積は狭い。
雨神社前の林道を更に進むと右へカーブした左手に山道へ入る分岐がある。
この倒木の先には左右に道が通っていて左に行くと、雨神社の脇を右に少し上がった交差点に出る。
そこを右に行くと、右手の高台が平坦地になっている。
林道側からみると、こんな感じ。石垣になっていて、上に構築物があった気配が有る。
更に西(京都方向)へ行くと、京都一周トレイルとの交差点に至る。そこを右(北)に上ると大文字山山頂へ、左(南)に曲がると日向大神宮へ、まっすぐ行くと鹿ケ谷、霊鑑寺へ下る。鹿ケ谷の途中にある楼門の滝あたりに如意寺の月輪門があり、園城寺が平安京と接する口となっていた。
(4)を行くと、尾根ずたいに山頂へと進む。
如意ヶ岳山頂を占拠している航空保安無線施設。
皇子山カントリークラブ脇の道にある建物の中に石仏と祠が。