Up
Down
Return

近江高島明神岬

(2013年7月)

大溝城




天正六年(1578年)に織田信澄が築城。内湖だった乙女ヶ池を堀にしていたというか、その中に浮かんだような城だったのかもしれない。天正十三年(1585年)に取り壊されて水口の岡山城に流用されたとか。
ちなみに、琵琶湖周囲の織田信長、豊臣秀吉と家臣達の城は、
坂本城
元亀ニ年(1571年)築城開始
長浜城
天正元年(1573年)築城開始
安土城
天正四年(1576年)
大溝城
天正十三年(1585年)
大津城
天正十四年(1586年)坂本城は廃城


乙女ヶ池

かつては山麓まで拡がる内湖だった。
昭和初期から淡水真珠養殖が行われたという。昔は洞海と呼ばれていたが、淡水真珠を売る時に「どうかい」では宜しくないと言う事で、真珠に相応しく乙女ヶ池と改名したという話を観光ボランティアの人から聞いた。
小女郎ヶ池みたいに伝説があるわけでは全く無いようだ。


『日本書紀』の天武天皇元年(672年)七月辛亥(22日)是日。羽田公矢国。出雲臣狛。合共攻三尾城降之。とある。壬申の乱の最終章。この日には大海人皇子軍が瀬田で大友皇子軍を破っている。翌日、大友皇子走無所入。乃還隠山前。以自縊焉。と、大友皇子は自決する。
この山中のどこかに三尾城(みおのき)があったらしいが、場所はわからない。


万葉歌碑。
「大船の香取の海に碇おろし いかなる人か物思はざらむ」


ここは、いわゆる「恵美押勝の乱」の最後の舞台でもある。『続日本紀』天平宝字八年(764年)壬子押勝阻勝野鬼江。盡鋭拒戰。官軍攻撃之。押勝衆潰。獨与妻子三四人乘船浮江。石楯獲而斬之。及其妻子從黨卅四人。皆斬之於江頭。獨第六子刷雄以少修禪行。免其死而流隱岐國。とあり、その「勝野鬼江」がここらだという。


江若鉄道線路跡と北陸道

万葉歌碑。
「何処にか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る船」


江若鉄道線路跡

奈良時代の北陸道



打下(うちおろし)磨崖仏


乙女ヶ池の遠望

山の麓と田圃の堺を北陸道が通っている。


江若鉄道線路跡

【江若鉄道略史】
大正十年(1921)3月15日 三井寺-叡山間開業
延暦寺での伝教大師1100年大遠忌に合わせた。
昭和六年(1931)1月1日 安曇-近江今津間開業
ガソリンカー導入。
昭和二十二年(1947)1月25日 浜大津-膳所間開業
昭和四十年(1965)7月10日 浜大津-膳所間廃止
昭和四十四年(1969)11月1日 浜大津-近江今津間廃止
昭和四十九年(1974)湖西線開業


大津市歴史博物館が2006年に「ありし日の江若鉄道」という企画展を行った。
DVDの「大津の記録」の最後の方に江若鉄道の動画が入っている。


琶湖山(はこざん)最勝寺

浄土真宗大谷派の寺院。
ここらの真宗寺院には、蓮如絡みの話が多いが、ここは蓮如が越前に吉崎御坊に行く途中、逗留した?とかいう。



打下(うちおろし)古墳


平成十三年(2001年)上水道配水施設建設工事中に人骨が発見された。最初は警察に届けられたが鑑識の結果、「この骨は古過ぎますね~。考古学者の範疇です。」という事で、教育委員会にまわってきたとか。つまり、出土した頭蓋骨はとてもきれいに残っていたということ。
魔除けに内部は朱色に塗られた箱形石棺に入っていた。今見ると、円墳のように整備されているが、単に尾根の先端部分に埋葬しただけではないかという感じもする。古墳時代中期(五世紀)のもの。被葬者は「村長クラス」(この表現は、ちょっと偉さの度合いがわかりにくいな)で身長155cm程度と小柄な40代~60歳くらいまでの中年男(中年とは現代の基準だけど)。頭蓋骨をもとに顔が復元されたものが歴史民俗資料館にあるが、今でもいそうな親父顔。


この古墳や、その上の上水道配水施設からの琵琶湖の眺めは素晴らしい。
「ここに埋めてくれ」(と言ったか?)という気持ちがわかる。

 

沖の白石と沖島




鵜川四十八体石仏群

これは万葉歌碑。
「思いつつ来れど来かねて水尾が崎 真長の浦をまだかへり見つ」
(巻九 一七三三)


六角義賢が母の菩提を弔うため、観音寺城があった繖山の対岸となる鵜川に天文二十二年(1553年)に造らせたとされている。『無量寿経』では、阿弥陀如来はまだ菩薩の時に四十八の誓願をたてたというのが「四十八」の由来。
現在でもきれいに整列しているが、当初は、説明板に書いてあるように六体×八列に並んでいたのではなく、もっとばらばらと置かれていたのではないかという説もある。
『湖国と文化』145号に記載されている大塚活美さんが書かれた「現代滋賀ブランド (12)石造文化財」によると、六角義賢が母の菩提を弔うために造らせたという説は寒川辰清が享保十九年(1733年)に書き上げた『近江輿地史略』に依っているようだが、冷泉為広の日記『為広越後下向日記』の延徳三年(1491年)三月に二十八体と数は間違えているが鵜川四十八体石仏を指していると考えられる記述があり、更に永享八年(1436年)の地元での境界争いの古文書に「四拾八躰」という文字があるとのことで、南北朝時代に造られたのではないかと推察されている。




石仏には無関係だが、古墳の石室が見えている。

四十八体の内、現在ここにあるのは三十三体。十三体は、上の説明板に書いてあるように江戸時代に天海が坂本の慈眼堂に移してしまった。残りニ体は昭和六十二年に盗まれた。
坂本の慈眼堂にある十三体も見てみよう。


白鬚神社

(別ページへ)




白鬚神社御旅所

比良山系を背景にJR湖西線の電車が走る。


岩除地蔵

左の写真のように、山の尾根が琵琶湖にせり出していて、古は難所だったらしい。
このお地蔵さんは通行人を落石から守り、落石は人が通らない夜しか起こらないようにしてくれたのだとか。
このせり出した山の部分は鎧岩丘陵という。







祠の中の岩除地蔵の他にも、石仏、石塔、左の写真にある、文字で南無阿弥陀仏、南无勢至菩薩、南无観音菩薩と阿弥陀三尊を書いた石碑など、色々集められている。


 

この道も江若鉄道の線路跡。左端に北小松駅が見えてきた。