浅草名所七福神巡り・浅草寺
「七福神巡り」なのに巡る先は九ヶ所あるという贅沢な?長距離コース。
浅草寺(大黒天)
浅草文化観光センター7階からの雷門―仲見世―浅草寺の眺め
上洛すれば、誓願寺の迷子みちしるべ
宝蔵門内側に掛けられた大わらじは外側の仁王様が履くためのものとされている。宝蔵門の上層は収蔵庫になっている。
金龍山浅草寺は聖観音宗という宗派の総本山。昭和二十五年(1950年)に天台宗から分かれた。
大黒天は影向堂外陣の左端。
弁天山
添田唖蝉坊は自作自演の演歌師ということになっているが、世相を反映した歌詞でプロテストソングの草分けという印象がある。添田知道(ともみち)は添田唖蝉坊の長男。
撞きいだす鐘は上野か浅草か行き来も絶えて月にふけゆく吾妻橋誰を待つやら恨むやら身をば欄干に投げ島田 チョイトネ
濡れ仏(二尊仏)
上の説明に書いてある由来よりも、2019/12/5 浅草「木馬亭」で聴いた宝井琴星師の講談「濡れ仏」の方が由緒としては面白い。
内容を後でメモしたものなので記憶違いがあるかもしれません。ご容赦を。
五代将軍綱吉の時、天領の上州館林大久保村の名主高瀬善兵衛が年貢50両を江戸の郡代へ納めに出かけた。日光街道を通り蔵前まで来ると捕物があり、それを見ている間に50両を女にすられてしまう。郡代屋敷でそれに気付いたが、村にも帰れず千住大橋までやってくる。そうすると橋の上を飛脚が走ってくる。それを追いかけてきた男が飛脚を刺し殺し、奪った包みを善兵衛に「持ってけ」と叫んで投げ渡した。善兵衛はその場から走って逃げて包みの中を見ると500両入っていた。
早朝に郡代へ50両の年貢を納め村へ帰り、残った金で醤油製造を始めた。事業はトントン拍子で大金がころがりこんだ。それから三年後、村人が善兵衛に前回年貢を運んでいただいた翌年は大豊作だったので今年もお願いしますと言ってきた。善兵衛は引き受けて江戸へ向かった。小塚原へさしかかると、獄門台に晒し首が二つあり、立て札に「上州大久保村熊右衛門、よし五郎」と書いてあった。驚いた善兵衛は役人に同じ村の名主ですが、彼らは何を仕出かしたのでしょうと尋ねた。
役人は三年前に年貢を盗まれた話を知らないかと尋ねて話し始める。
この二人は、千住大橋で熊右衛門が金飛脚を襲いよし五郎に投げ渡すという計画を立てた、よし五郎には女がいて、その女は蔵前で50両すったので、その金で遊び暮らそうと言う。しかし、よし五郎は約束が気になって千住大橋へ行くと飛脚が死んでいた。熊右衛門が金を全部持って逃げたと思ったが、熊右衛門はよし五郎に投げ渡したのに姿をくらましたと思っている。三年後に二人は浅草で出会い、喧嘩を始め、御用となった。
役人は奪われた金はどうなったのだろうかと思案していた。善兵衛は知らんぷりをして年貢を納め、村へ帰った。
それから善兵衛は毎夜、二つの頸の目が自分を睨んでいる夢を見続け、げっそりと痩せてしまった。村の寺の僧にどうすればよいか相談すると、僧は仏像を二体寄進したらと勧めた。それが、浅草寺の二体の濡れ仏だという。
右:阿弥陀如来像 寛文十一年(1672)造立、中央:地蔵菩薩像 享保十一年(1726)造立、左:阿弥陀如来像 延宝五年(1677)造立
どこかから移されたのか、一番後に造られたお地蔵さんが中央で、両側に阿弥陀如来が立つ。
九代目市川団十郎の
経文が刻まれた長い塔身を持つ宝篋印塔
銅造の宝篋印塔。鋳造ならではの緻密さがある。
迷子しるべ石