矢田寺
説明板に書いてあるが、寺町三条上ル矢田寺は奈良県大和郡山市の矢田寺の別院。
冬至の日(実際は23日だった)に、中風除けのかぼちゃ供養を行う。
誓願寺
浄土宗西山深草派総本山。
山門の前、新京極に面して立つ「迷子みちしるべ」。側面に「教しゆる方」、左側面に「さがす方」と彫ってある。
落語の祖とされる誓願寺五十五世安楽庵
『
西向きに坐した丈六の本尊阿弥陀如来像は神仏分離令で石清水八幡宮から移されたものだという。
世阿弥作と言われる能の「誓願寺」は、誓願寺を訪れた一遍が和泉式部の霊に遭う話。
「我も仮なる夢の世に 和泉式部といはれし身の 仏果を得るや極楽の歌舞の菩薩となりたるなり」と謡い歌舞の菩薩となった和泉式部に芸の上達を祈願するという事で上の写真の扇塚が建立された。
浄土宗の寺だが、近世の時宗(遊行派の)遊行上人は上洛して朝廷から「他阿」という上人号を下賜された後に、ここで一週間ほど参籠する事になっていた。彼らの京都での拠点は七条道場(金光寺)だったが、数十人の僧を引き連れて遊行上人が誓願寺へやって来て三度の勤行のほか、集まった人々に賦算などを行った。これは、布教活動であるが、収入も多かったようだ。
南無阿弥陀仏の扁額については能の古跡を参照。
裏寺町側に宗務所などの入口がある。この大きな建物の座敷は上方舞や仕舞の体験講座などの催し会場に使われている。
華嶽山東北寺誠心院
和泉式部の関連では誠心院が誓願寺のすぐ南にある。
真言宗泉涌寺派。
霞た津 はるきにけりと 此花を
見るにそ鳥の こゑもまたるる
能で軒端の梅と言えば「東北」。
和泉式部の宝篋印塔。鎌倉時代以降に広がった宝篋印塔と和泉式部は時代的には合わないが。背景に東山があれば良いのだが…。
蛸薬師(浄瑠璃山林秀院永福寺)
浄土宗西山深草派の寺院。養和元年(1181年)林秀という人が、養和元年(1181年)に比叡山東塔根本中堂の本尊薬師如来の夢告で見つけた伝教大師最澄自刻の石造薬師如来を祀った御堂を室町二条に作り永福寺と名付けたのが始まりという事になっている。豊臣秀吉によって天正十八年に寺町が形成された時に移ってきたのだろう。
妙心寺阿弥陀堂
愛知県岡崎の妙心寺がここに移った経緯は右下写真の「由来」に詳しい。
岩津松平家とは、室町時代(15世紀)に西三河地方に分出した松平氏の一流。古文書における関係人物の表記で、岩津は岩戸とも表記されている。三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津城攻撃を受けて衰退し、松平氏庶流の安城松平家が岩津家に代わって惣領家化した。その後、岡崎の宗家第八代(安城家の五代目)・広忠の代には岩津家の跡が絶え、三木松平家とされる信孝によって遺領が押領されたという。
岩津松平家の菩提寺は妙心寺(岡崎市岩津町、現在は円福寺)とされている。妙心寺は信光が26歳で早世した子・親則の菩提を弔うために寛正2年(1461年)に創建したもの。なお、妙心寺は文明13年(1481年)に信光明寺に次いで勅願寺となっている妙心寺は明治5年(1872年)に京都新京極の地(京都市中京区裏寺町)に移転し、入れ替わりに円福寺が妙心寺趾に入って現在に至っている。
染殿院(金蓮寺跡)
金蓮寺は、応長元年(1311年)浄阿真観が後伏見上皇の女御広義門院藤原寧子の出産に効があり上皇から祇陀林寺を賜り金蓮寺と改めたことに始まる。四条通りからだと「林万昌堂」の店内を抜ける感じになる染殿院は「「一遍上人絵伝」の釈迦堂」で、「一遍上人絵伝」では一遍がここで賦算している。足利義満が金蓮寺へ寄進し金蓮寺の塔頭となった。金蓮寺そのものは、昭和三年(1928年)に鷹峯藤林町へ移転した。