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田上山(たがみさん)城址

田上山城址

分岐点に戻る。
呉枯ノ峰と田上山へは、この写真の正面の道を行く。


 

呉枯ノ峰と田上山との分岐


田上山城址

田上山城址


田上山城址

田上山城址


田上山城址

田上山城址


田上山城址

羽柴秀吉の異母弟の羽柴秀長が天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの前に構築した。
縄張などは下の写真を参照。


田上山城址

田上山城址


田上山城址

田上山城址


田上山城址

田上山城址


田上山城址

田上山城址


田上山城址

田上山城址


田上山城址

田上山城址


田上山城址

田上山城址社


意富布良(おほふら)神社と観音寺

意富布良神社

意富布良神社


意富布良神社

意富布良神社


意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社



意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社



意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社



意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社



意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社



意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社



意富布良神社

意富布良神社



意富布良神社

意富布良神社


意富布良神社

意富布良神社


意富布良神社

意富布良神社

意富布良神社


 

↓ 内容はこちら


おほふら                                         
意富布良神社由緒                                     
                                             
御祭神 建速須佐之男命                                  
合祀神 大穴牟遅命 猿田彦命                               
    八意思兼神 梨迹臣命                               
 当社の草創は飛鳥時代と言われ 往時は近江國 四祓所の一社として 大社であった 裏山の大洞
山は 古来霊峰として神域視され 山麓一帯は里 宮と呼ばれていた 山腹にも三社があり 共に天
武天皇の御代 白鳳四年(六七六)の鎮座と伝え られている 麓の宮は 王布良天王社 或は 天
王宮といひ 奈良時代には 神宮寺とも称された  祭神は牛頭天王又は田上天王とも申し 梨迹臣
命と合せて 当地開拓の祖神として崇められ 延 喜式内社であった かつては 田部地先の北国往
還路に一の鳥居があり 旅人が乗馬のまま通ると  よく落馬したという伝えがある 寿永二年(一
一八二)五月 木曽義仲が上洛の途次 当社に祈 願した その時兜を置いた石を「兜石」と名付け
現存している 観応二年(一三五一)八月足利氏 八相山合戦の時 将軍桃井若狭守直常が 上の宮
 に加護を祈った また豪族井口弾正源正は当社 を厚く崇敬し応安六年(一三七三)十二月大般若
経を寄進した 元禄十年(一六九七)の記録によ ると 山の三社を神前神社 猿田彦命 乃彌神社
 八意思兼神 蟻通神社 大穴牟遅命 と申して いた 天正年間織田信長小谷城攻略の時 田上城
をも攻め 城主朝倉義景敗北し 同時に社殿は焼 失してしまった 幸い 御神像は御安泰で麓の天
王宮に合祀された 天正十一年(一五八三)賤ヶ 嶽の合戦に再び兵火に遭遇したが 慶長六年(一
六〇一)豊臣秀頼が再建 延宝四年(一六七六)  には井伊玄蕃頭が奉拝している 明治六年意富
布良神社と改め 明治十八年郷社に列し 大正十 四年県社に昇格した 御神像は 大正十年国の美
術鑑定による延喜時代のものであるという鑑査状 を受けている 摂社として 豊栄神社 神明宮 
末社に天満宮 稲荷社 境内地外に 秋葉神社  五社宮 金比羅宮が鎮座される 例祭四月二日 

 

オットセイに見えたが、やはり亀らしい。


意富布良神社

意富布良神社


意富布良神社

意富布良神社


意富布良神社

意富布良神社


稲荷社

天満宮

意富布良神社

意富布良神社


意富布良神社

意富布良神社


田神山観音寺

意富布良神社

意富布良神社の本殿のすぐ左横には観音寺の本堂が建っている。
一応、参道は別に有り神社の境内の外という体裁は繕っている。
本尊は聖観音菩薩立像。


意富布良神社

意富布良神社


11月下旬、意富布良神社では「もみじまつり」を行っていたが、ここの紅葉は確かに素晴らしい。

意富布良神社

意富布良神社


石作玉作神社

千田

千田


拝殿

これが相殿?


千田

千田


本殿

神饌殿


千田

千田


千田

上の「由緒」の石碑に依ると、石作連の祖神を祀った石作神社と玉作連の祖先を祀った玉作神社を文明四年(1472)に合祀し、更に千田の産土神の八幡神を相殿に祀ったという。『石作玉作両社考 祠掌林氏蔵版』(進藤千尋、南部晋、若江薫子/編輯 澤宗次郎発行 1874)にもう少し詳細な由緒や「石作神社寳圖考」が書かれている。石作連や玉作連という部曲かきべがいたとすると、大化の改新前の7世紀前半頃にこれらを生業とした人びとが集住していたことになる。少し南の「物部」との関係が気になるところ。