高野・馬上・高月・横山・東物部・西物部・磯野
高月町高野
高野大師堂(満願寺)
満願寺は『己高山縁起』で惣山之七箇寺の一つとされている。
高野神社
寺は高野の集落の東の端・山側の突き当りに位置している。
国の重文である大師堂に安置されている木造の坐像は最澄の像という伝承だったが、像内の墨書から弘安六年(1283年)に院信によって造られた良源の像であることが判明した。院派の七条大宮仏所系に属する院信は室町時代の人物なので、いわゆる"後銘"か、別の院信なのか、造像年が誤りなのか疑問を感じる。
天比比岐命神社(あまひびきのみことじんじゃ)
延喜式神名帳に記載されている古社。丸山城跡。
高野の野神さん
雨森を南北に通り抜ける北国脇往還からまっすぐ東に来た集落の入口に高野の野神さんは立っている。
野神祭は8月17日に行われる。郷廻りとして松明を持って畦道を歩くが、これが虫を燻す虫送りの行事らしい。
高野で関心をそそられるのは『高月町の地名』に見いだせる小字山神(山ノ神)*24 pp89,95。天比比岐命神社周辺と思われ、「山講の祭祀をした」と書いてある。
馬上(まけ)の野神さん
見てのとおり大変個性的な野神さん。高時川左岸堤防の河川敷側にある。
砂を敷いた細長い長方形の区画の周囲を御幣を下げた細縄で囲っている。南端に竹の鳥居があり、額束部分に勧請縄のトリクグラズのような丸い輪が懸けられている。北端に先端に御幣を付けた青竹が立っている。
高月町高月
高月観音堂
右隣は神高槻神社。
「天平年間(729年~49年)に当地にあった槻の巨木に天児屋根命が降臨されたとの伝承がある。後、平群広技により、高額比売命を合祀した社殿が創建されたという。寛治年間(1087年~1094年)、大江匡房により「高槻」を「高月」に改めた。高月郷の惣社である。『延喜式神名帳』に記載された式内社である。」
(Wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%AB%98%E6%A7%BB%E7%A5%9E%E7%A4%BE より)
己高山を望む。
高月の野神さん
日本電気硝子の工場の敷地に食い込んだ野神さん。前の道路も工場団地内という感じ。
『俊蔵祭』(松田行三 1988 高月図書館蔵)14ページによると、野神塚は裏面に昭和十三年とある。(中略)野神塚由来(古文書)農家ニ祭ルハ五穀成就ヲ祭ルノ謂ナリ唐土ニテハ農ヲ教ヘテ民夫食シ安穏ナラシム后稷ト云秋ヲ以之ヲ祭ル野神或是ナリ昔馬ノ野神号ス処ニ炬ヲ焼キテ神ニ燈明トス。何レノ年間ヨリ栗原ニ社地趾アリ是ヲ以テ野神トシテ大キナル炬ヲ焼キ野神女郎ヲ厳重ニ拵ラヘ鉦太鼓笛ヲ揃テ賑々敷シク渡リヲナセリ大円寺ノ門内ニテ莫太ノ炬ヲ拵へ栗原ヘ持込焼キタルモ天明年間南北ノ故障ニテ廃止セリ。
と記されている。
「
明治十六年、前田俊蔵がここで自決した。この年の夏は旱魃で、彼は福井県と岐阜県の境にある夜叉ヶ池の龍神へ自分の命と引き換えにと祈雨した。高月へ帰ってくると雨が降っていたので、ここで割腹自殺したという。
高月観音堂の入り口に「前田俊蔵氏之碑」がある。
高月観音堂のおしどり杉
神高槻神社の龍神さま
「林右衛門淵に祀られていたが、嘉永3年(1850)7月23日の大洪水の時、祈願し、大難を逃れ、翌4年2月木像を造り、仲右衛門の地を求めて社を建てる。後に神社境内に祀る。」*1とある。林右衛門淵は高時川の淵。
天神様
お稲荷さん
明治初期の神仏判然令の影響が明白な高月観音堂と神高槻神社。高月観音堂は神高槻神社の別当寺だったか。
高月 薬師馬場の槻
枯れてしまい、切り倒されたらしい。
森本の野神塚
『村落景観情報-滋賀県伊香郡高月町村落景観情報』*1によると、昭和十四年まで野神祭が行なわれていたという。
横山の野神さん
前方後円墳の円墳の頂上に野神さんの石碑跡のようなものがある。青竹の頂上に御幣を下げてあるこれが野神さんだろう。隣には稲荷社がある。
横山神社
この木も野神さん扱い?唐川の?
東物部の野神さん
高月の多くの野神さんにある「野大神」の石柱は、圃場整備の後に立てられたもの。
東物部と西物部は圃場整備によって墓地も野神さんのそばに移され纏められている。野神さんがある「東物部浄園」は明らかにこうした墓地。
「野神さん」は写真にある欅の巨木ではなく、下の写真の石柱の位置にあったという檜を指していたらしい。現在は石柱がその代替となっている。昔は「農神」だったらしい。*7
野神さんの傍におられた婦人の話では、野神祭ではお神酒を奉納する。前日の夜に仕込み、16日早朝にお神酒と神饌を供えるそうだ。
東物部
集落に入ると落ち着いた景観にほっとする。
光明寺
乃伎多神社
乃伎多神社の主祭神である
東物部の野神さん
高月の多くの野神さんにある「野大神」の石柱は、圃場整備の後に立てられたもの。
東物部と西物部は圃場整備によって墓地も野神さんのそばに移され纏められている。野神さんがある「東物部浄園」は明らかにこうした墓地。
「野神さん」は写真にある欅の巨木ではなく、下の写真の石柱の位置にあったという檜を指していたらしい。現在は石柱がその代替となっている。昔は「農神」だったらしい。*7
野神さんの傍におられた婦人の話では、野神祭ではお神酒を奉納する。前日の夜に仕込み、16日早朝にお神酒と神饌を供えるそうだ。
西物部
八幡神社
西物部の野神さん
集落の東(東南)隅にある。圃場整備でまとめられた墓地のそばだが、木は昔のままの位置だろう。
磯野
磯野氏と磯野城
磯野氏は井口氏や阿閉氏と同じく京極氏に被官した国人で、磯野集落から余呉川を渡った西の山中に磯野城という山城を築いた。直系ではないが、佐和山城主磯野伊予守員吉の養子に迎えられた員宗の子が磯野
磯野寺・赤見神社
磯野は2月15日に行われる「嫁オコナイ」で知られている。
磯野の野神さん
磯野集落には「磯野の一本杉」があったが枯れてしまい、若木が植えられた*2 P193という。野神祭は赤見神社で始まる。
『滋賀県の自然神信仰 滋賀県自然神信仰調査報告書(平成一四年度~平成一九年度)』*2には、『野大神』の石碑が建つ。そばに直径二メートルほどの大きな穴があり、これは旧野神の切株が朽ちたものである。石碑と穴の間に新野神が立っている。四方には笹が立てられ、注連縄が張ってある。前には神饌台が置かれ
(194ページ)とある。穴は見当たらないので埋められたのだろう。「農萬年寿」の石碑の前あたりにあったのか?