建仁寺
四条通りから花見小路を下ってくると、ただでさえ観光客で混んでいるのに、競馬がある日はウインズ京都という場外馬券売り場があるために車が多くてまことに迷惑。もっとも移転の話が出た時に移転候補地の住民が反対した経緯があるためJRAは開き直っているようだ。その点、八坂道や一筋南の松原通りから建仁寺に入ると、禅寺らしい佇まいが感じられる。
勅使門
三門
鎌倉後期の築とされる銅板葺の四脚門で国の重文。
前の「八坂道」を東に行くと八坂の塔に行ける。一筋南は松原通で西福寺、六道珍皇寺があり、六波羅蜜寺はそのすぐ南。
浜名湖に近い静岡県浜松市西区にある安寧寺から移築されたもの。
「
開山堂
法堂(拈華堂)
江戸時代中期の明和二年(1765年)に上棟されたが、その発願から完成までは半世紀がかりの大事業だった。
法堂内からの三門の眺め。
本尊釈迦如来坐像を安置する五間四間の近世禅宗様建築。二層に見えるが裳階が付いた一重。
扇垂木が流れるような勢いある美しさ。
詰組が見事。
小泉淳作(1924年~2012年)が描いた天井の双龍図。
典型的な禅宗様と言ってよさそうだが、特に海老虹梁のカーブが美しい。
楽神廟
栄西(永治元年(1141年)~建保三年(1215年))は吉備津神社の権禰宜だった賀陽貞遠の子として生まれたという。虎関師錬が記した『元亨釋書』卷第二に釋榮西、號明庵。備之中州吉備津宮人。其先賀陽氏。薩州刺史貞政曾孫也。母田氏、懷孕八月而誕。母無困惱。永治元年四月二十日明星出時也。(黒豆データベース:http://www.zenbunka.or.jp/data/text/entry/post.html)
とある。
道元禅師修業の遺跡。何の「遺跡」なのか
本坊
方丈
玄関は本坊と方丈との間。
方丈は国の重文。安国寺恵瓊が慶長四年(1599年)に広島県福山市の安国寺から移築した。
方丈から法堂を見る。
七代目小川治兵衛による大雄苑と名付けられている枯山水庭園。
礼の間の「雲龍図」
襖絵は「竹林七賢図」
方丈の各部屋の襖絵(掛け軸)は
檀那の間の「山水図」
依鉢の間の「琴棋書画図」
各部屋の襖絵はすべて高精細複製品。「
書院の間は「花鳥図」
海北友松(天文二年(1533年)~慶長廿年(1615年))は近江国の出身。父の海北
対馬行列輿。李氏朝鮮との外交窓口として漢文に長けた禅宗の、天龍寺・東福寺・建仁寺・相国寺の僧が対馬の以酊庵という寺に派遣された。
潮音庭
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」高精細複製品。
大哉心乎。栄西の言葉。