品川宿
品川宿は、東海道の第一番目の宿。北から
八ツ山橋。橋の南側あたりが映画の「ゴジラ」でゴジラが上陸した地点とされている。
京急の踏切を渡ると、そこからが新宿。
問答河岸
寛永十六年(1639)、沢庵は三代将軍徳川家光が沢庵のために建立させた東海寺に入り開山となった。翌年、家光は東海寺を訪れ、北品川の河岸に出迎えた(見送った?)沢庵と家光の問答から、そこを問答河岸と呼ぶようになったという。東海道から東の坂を下ると、すぐ波打ち際だった。
問答とは、『徳川実紀』によると、「東海寺へならせられし時 沢庵和尚召て 海近うして東海寺とはいかにと仰ければ なを大君にしてしやうぐんと称し奉るがごとしと御答せしかば 人々一時の機對なりと感じ奉りけり。」というもの。ここには、いつ、どこで、どのような状況でのやり取りだったのかは書いていない。
土蔵相模跡
旅籠屋「相模屋」跡。外壁が土蔵に使われた海鼠塀だったので、通称「土蔵相模」。
品川の屋形船はここが乗船場。
鯨塚
寛政十年(1798)、天王洲に打ち上げられた鯨(その時点での生死は不明、品川沖に迷い込んだ鯨を漁師達が浅瀬に追い込んだという説明もある。)は、結局解体されて、骨をここに埋めたという事らしい。
近世までは弁天様。明治に祭神を市杵嶋姫に変えられた。
子沢山の狛犬
台場跡
上の写真は、石垣の下が波打ち際だった事を示す場所だったのだが、建築工事中。
豊盛山一心寺
真言宗智山派の寺。安政二年(1855)に井伊直弼により開山されたという。本尊は成田山の分身という不動明王像で通称「品川成田不動尊」。
養願寺
品川神社
石段下の「双龍鳥居」
龍ばかりではなく、他の彫り物もなかなかの見もの。
高円寺の「双龍鳥居」
まず、富士塚に登る。
「日本参道狛犬研究会」の石碑
浅間神社
いきなり背後から失礼ですが、性別が明確な狛犬です。
雲上の狛犬。下の台座の彩色された富士山も見事。
金銀の狛犬
神楽殿は6月初めの例大祭「北の天王祭」の準備中
主祭神は、安房の洲崎明神を勧請した天比理乃咩命。文治三年(1187)に源頼朝が勧請したという縁起になっている。
北品川の鎮守となっている。
本殿の向かって右側に阿那稲荷社の上社?
右の石段を下ると下社?がある。こちらは本当に「穴」稲荷。
板垣退助の墓。説明板に書いてあるように、ここは品川神社の境内ではなく東海寺の塔頭「高源院」の境内だったところ。。
ビルの間にわずかに見える木々の辺りが現在の東海寺だそうです。
本陣跡
本陣の建物は公園の西から北側で、公園の広場は庭園だったようだ。
荏原神社
南品川の鎮守。それが北品川にあるのは目黒川の流路変更のためか。6月初めの「南の天王祭」(かっぱ祭)は京都祇園社から勧請した牛頭天王の御神面を神輿に付ける「御神面海中渡御」で知られる。牛頭天王の神面は天王洲で海中から見つけられたとされていて、これが「天王洲」の地名の由来らしい。
。かつての目黒川下流は蛇行していて、荏原神社の北側を流れていた。
主祭神は
社殿は弘化元年(1844)築というが、彫刻など意匠は見もの。
向拝と本屋の間から龍が頭を出している。口の下を見ると桶がある。雨水を縦樋を省略して一気に下の桶に落とす役割を担っている。
宝永三年(1706)に病平癒の願が叶った深川の地蔵坊正元が京都六地蔵に倣い江戸に六地蔵建立を発願した勧進を募った。品川寺の地蔵は宝永五年(1708)造られた。蓮台などに寄進者の名前がびっしりと刻まれている。
江戸六地蔵
「溺死者供養之碑」
品川寺 1708年(宝永5年)品川区南品川三丁目5-17
東禅寺 1710年(宝永7年)台東区東浅草二丁目12-13
太宗寺 1712年(正徳2年)新宿区新宿二丁目9-2
真性寺 1714年(正徳4年)豊島区巣鴨三丁目21-21
霊巌寺 1717年(享保2年)江東区白河一丁目3-32
永代寺 1720年(享保5年)江東区富岡一丁目15-1 (現存せず)
海照山品川寺は真言宗醍醐派別格本山。醍醐寺座主が東京に来た時には、ここを訪れるという。
寺伝では、大同年間開創という。本尊は水月観音。
本堂
梵鐘(洋行帰りの鐘)
明暦三年(1657)京都の大西五郎左衛門作。鐘身の六観音像は大仏師康斎。また、徳川三将軍の号(東照宮、台徳院殿、台献院殿)が陽刻されて、普門品一巻が陰刻されている。この鐘はパリ万博(1867)・ウィーン万博(1873)に展示され、その後ジュネーブの個人蔵となり、死後遺言でジュネーブ市へ寄贈された。大正時代に品川寺住職の順海が探し求めジュネーブのアリアナ美術館が所蔵していることを突き止めた。大正八年(1919)、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還を求める書簡を送った。外務大臣幣原喜重郎などの助力もあり、ジュネーヴ市議会は昭和四年(1929)に鐘の返還を議決し、昭和五年(1930)に品川寺に戻った。
海雲寺
千躰三宝荒神で知られる寺だが、龍吟山海雲寺は曹洞宗の寺院。建長三年(1251)に不山が近くの海晏寺に庵瑞林として開いた。慶長元年(1596)に分外祖耕により臨済宗から曹洞宗に改められ、寛文元年(1661)海雲寺となった。本尊十一面観世音菩薩。
鐘楼
平蔵地蔵
鈴ヶ森刑場番人の平蔵が仙台藩下屋敷の藩士の財布を拾い、落とし主を探して届けた。仲間の番人から「山分けすれば暮らしが楽になった」と小屋を追い出され凍死した。それを聞いた落とし主の藩士が地蔵尊を建立し供養した。「襤褸は着ても心は錦」の喩えとされたというが、それは武士の立場からの目線の感じもする。
千躰三宝荒神
島原の乱の時に鍋島直澄が天草の荒神ヶ原にあった千躰荒神像を芝二本榎にあった佐賀藩下屋敷へ遷座させたが、明和七年(1770)にここへ勧請されたという。
ただの石塀かと思いきや、落語家の名前が刻まれている。
御幣を立てた建物は寺院とは思えない姿。青物横丁駅を東に出ると目に付く。