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吒枳尼天

ダ枳尼天

真如堂


正面から真如堂本堂へ向かうと左側に鳥居がある。鳥居をくぐって入るが…

真如堂


この建物はお稲荷さんには見えない。


ダ枳尼天

ダ枳尼天


真如堂


真如堂


謎の吒枳尼天(だきにてん)

吒枳尼天は荼枳尼天とも書き、ヒンズー教から仏教に取り入れられたよくあるパターン。
白狐に乗った女神として書かれていることが多い。何故その様な姿になったのか不明だが、狐の連想から稲荷に結びついた。ふつう、お稲荷さんと言えば神社を思い浮かべるが、荼枳尼天を祀っている「稲荷」は豊川稲荷のようにお寺(妙嚴寺)だったりする。明治の神仏分離令で廃されてしまったが、伏見稲荷にも愛染寺(愛染院)で荼枳尼天を祀っていたという話もある。お寺の鎮守社として稲荷社がある場合、多くは吒枳尼天だったらしい。
左下の写真は真如堂の境内図だが、吒枳尼天を祀っているのは法伝寺というお寺になっている。右下は真如堂前の道にある町内図だが、法伝寺は社務所兼住宅部分で、本堂/本殿?は「いなり神社」と書いてある。ここは真如堂の鎮守社と思われるが、ここまで江戸時代以前の状態を残しているところは、珍しいのかもしれない。(今まで意識して見ていなかっただけかもしれないが…)

ダ枳尼天

ダ枳尼天


密教に荼枳尼天法という修法があり、『古今著聞集』巻第六(265)に、「知足院忠實大權房をしてだ祇尼の法を行はしむる事并びに福天神の事」という話が載っている。知足院藤原忠実(ただざね)(1078年~1162年)は、「何事にてか、さしたる御のぞみふかかり事侍りけり。御歎のあまり、大權房といふ効驗の僧の有けるに、だきにの法おこなはせられけり。」と修させたが、すぐには「しるし」がなかった。僧は「七日の中にしるしあるべし。若七日に猶しるしなくは、いま七日をのべらるべく候哉。」それでもかなわなかったら流罪にしてしていただいてけっこうときっぱりと言った。7日経った時、「狐一疋來て供物等をくひけり。」更に其後7日経った日、知足院が昼寝していると「容顔美麗なる女房」が枕元を通った。その髪は重ねた衣よりも三尺長くあまりに美しいのでその髪にとりついた。その女房は見帰て”そもあしう、いかにかくは”と言ったが、その聲や顔はこの世の類ではなく天人が下ってきた様だった。それでいよいよ強く留めると、女房はあらく引きはなって行ってしまった。髪は切れてしまった。そこで夢から醒めると手に狐の尾があった。「次日牛刻に、御悦の事、公家より申されたりけるぞと。」と望みはかなった(以上、日本古典文学大系 84 古今著聞集 岩波書店 1966より引用、意訳)。藤原忠実は、関白だったが白河法皇の怒りをかつて宇治に謹慎させられていた。白河法皇が崩御した後に中央政界に復帰したが、その時の逸話?という事になる。
小松和彦著の『日本妖怪異聞録』の第二章「妖狐 玉藻前」に「荼枳尼天信仰と玉藻前伝説が関係があることは、何人かの研究者に指摘されている。この荼枳尼天信仰は、真言宗、とくに京の都近くにある伏見稲荷を東寺が支配下に置いたことから、東寺系の密教僧たちの間で信仰され出し、それが広く流布することになったと考えられる。東寺を中心とする真言僧徒は、狐を辰狐王菩薩(しんこおうぼさつ)と称して神仏化し、天照大神に比定した。」と書いてある。玉藻前とは鳥羽上皇の寵愛を受けたが、陰陽師の安倍泰成(安倍晴明という話もある)に正体を暴かれ那須野で三浦介義明、上総介広常に殺されて殺生石になったという九尾の狐。これは能の「殺生石せっしょうせき」などで有名なお話。
荼枳尼天法は真言宗だけではなく、天台宗も修したということで、天台宗の真如堂に荼枳尼天が祀られていてもおかしくはない。
『源平盛衰記』に「清盛行大威徳法附行陀天並清水寺詣事」として、「或時連台野にして、大なる狐を追出し、弓手に相付て、既に射んとしけるに、狐忽に黄女に変じて、莞爾と笑ひ立向て、やゝ我命を助給はば、汝が所望を叶へんと云ければ、清盛矢をはづし、如何なる人にておはすぞと問ふ。女答て云、我は七十四道中の王にて有ぞと聞ゆ。さては貴狐天王にて御座にやとて、馬より下て敬屈すれば、女又本の狐と成て、コウ\鳴て失ぬ。清盛案じけるは、我財宝にうゑたる事は、荒神の所為にぞ、荒神を鎮て財宝を得には、弁才妙音には不如、今の貴狐天王は、妙音の其一也、さては我陀天の法を成就すべき者にこそとて、彼法を行ける程に、又返して案じけるは、実や外法(げほう)成就の者は、子孫に不伝と云者を、いかゞ有べきと被思けるが、よし\当時のごとく、貧者にてながらへんよりは、一時に富て名を揚にはとて被行けれ共、遉が後いぶせく思て、兼て清水寺の観音を奉憑蒙御利生と千日詣を被始たり。雨の降にも風の吹にも日を闕ず、千日既に満じける夜は通夜したり。夜半計に両眼抜て、中に廻て失ぬと夢を見る。覚て後浅猿と思て、実や仏神は来らざる果報を願へば、還て災を与へ給といへり、あはれ是は分ならぬ幸を願に依て、観音の罰に、我魂を抜給か見えぬるやらんと現心もなし。去にても人に尋んとて、我眼の抜て中に廻て去ぬると、夢に見たるは善歟悪歟と札に書て、清水寺の大門に立て、人を付て令聞之。参り下向の人多く札を見て、不心得と而巳云て、誰も善悪をばいはず。両三日を経て後に、或人見之打うなづきて、実に目出き夢也、吉事をば目出しと云、目出しとは目出ると書り、眼の抜は目の出る也、此夢主は日来心苦く侘しき事をのみ見けるが、此観音に依奉帰依、難の眼を脱棄給て、吉事を見んずる新き眼を、可入替給御利生にや、あつぱれ夢や\と両三度嘆て去ぬ。使帰て角と申ければ、清盛大に悦て、さては好相成けりとて、彼礼を深く納て、仰天果報を俟つ。」(http://j-texts.com/seisui/gsznb.html)というけっこう有名な話がある。「実や外法成就の者は、子孫に不伝と云者を、いかゞ有べきと被思ける」、つまり、この外法が成就しても清盛一代だけで子孫には伝わらないという部分が、平家の滅亡を暗示しているという受け取られ方をしている。
稲荷や弁財天と結びついた荼枳尼天は、豊川稲荷のように、民間信仰的にしっかりと根を下ろして後世まで残り、現在も健在と言える。一方、密教と関連した荼枳尼天と修法の内容は、上述のように東寺が関与して始まった気配があるが、どのように形成され、いつどのように外法とされたのか、あるいは抹殺・抹消されたのか、よくわからない。

東北院

東北院

東北院


東北院は、藤原道長の娘で一条天皇の中宮、後一条天皇と後朱雀天皇の母である上東門院彰子の発願により法成寺の東北に建立された常行三昧堂に始まる。何度も火災で焼失・再建・移転があったが、おおむね今出川通りと広小路の間くらいにはあったようだ。しかし、元禄五年(1692)の火災の後、現在地へ移転した。創建時は天台宗だったが、おそらく移転前後に時宗寺院となった。『宇治拾遺物語』巻第四の六に「東北院菩提講の聖の事」という話がある。上の「雲林院」でも菩提講が行われていた事が『大鏡』からうかがえ、これらから平安時代後期には菩提講があちこちの寺院で行われたいたようだ、
能の「東北とうぼく」は移転前の旧地が舞台だが、和泉式部と「軒端の梅」を題材としている。
また、国の重文「東北院職人歌合絵巻」は建保二年(1214)秋、東北院の念仏会に集った職人が、貴族の真似をして歌合をしたという趣向で描かれている。経師を判者に、左に医師、鍛冶、刀磨(とぎ)、巫女、海人、右に陰陽師、番匠、鋳物師、博打、賈人と、10人の職人が左右に分かれ、「月」と「恋」を題として、各職が2首ずつ詠って競う五番の歌合が構成されている。巫女や博打が職人に含まれ、「当時、職人といわれたものは、今日とかなりちがったものであったことがわかる。」と宮本常一は『生きていく民族』(河出文庫 2012)に書いている。


日文研データベース『拾遺都名所図会』の翻刻文  日文研データベース

東北院〔極楽寺の西に隣る、時宗にして藤沢に属す。本堂の額は東北院と書して、後西院の宸筆なり〕本尊辨財天〔伝教大師の作、立像二尺三寸許。脇士、左、毘沙門天同作、右、大黒天〕関白道長公像〔衣冠束帯坐像、一尺許。道長公は関白兼家公の男、正一位摂政太政大臣、万寿四年十二月四日甍御す、法成寺殿と号す〕和泉式部の塔〔寺内にあり〕雲水井〔堂前の西にあり〕軒端梅〔同所にあり〕抑いにしへの東北院といふは、上東門院の御願にて、御父御堂関白道ち長公の棲給ふ法成寺の傍につくらせ給ふと、続世継に見へたり。拾芥抄には、一条でうの南京極の東なる上東門院の御所、法成寺の内、東北の隅なりとぞ。扶桑略記には、長元三年八月廿一日上東門院東北院を供養ありしよしを書り。落慶の導師は僧正慶命なりと、釈書にのせたり。又永承五年十月十三日には、天皇東北院に行幸ある由、百練抄にあり。しかあれば、いにしへは伽藍巍々壮麗にして、天台宗の浄刹なり。其旧地は今の京極通清和院御門の北、遣迎院廬山寺等の地なり。委は愚撰の平安旧図考に載たり。〔和泉式部の塔、雲水軒端梅は今所々にあり、皆東北といふ謡曲によりて後世作ると見へたり。当寺の再興は元禄年中なり〕
  東北院のわたどのゝやり水に影を見て読侍ける
続後撰  影みてもうき我なみだ落そひてかごとがましき瀧の音かな  紫式部

東北院

東北院


東北院

軒端の梅
「東北といふ謡曲によりて後世作ると見へたり。」と言われても、やはり東北院と言えば軒端の梅。


東北院

東北院


東北院

東北院


東北院

弁天堂への入り口脇に「大辨財天女」の石柱が立っている。一時期はこの弁財天参りでかなり賑わったらしい。