Up
Down
Return

奈良の野神さん

奈良市西大寺野神町の野神

西大寺の北側の道を西へ歩いた四つ角の北西に野神神社がある。

西大寺野神町

西大寺野神町


野神の社

その左の社には十一面観音の石像。


西大寺野神町

西大寺野神町


西大寺野神町

西大寺野神町


西大寺野神町

野神神社を更に西へ坂を上がって行くと、この案内板がある。ここで右に曲がると叡尊の五輪塔などがある体性院に行ける。地形としては体性院あたりがこの地域の一つの頂上になる。左の簡単な地図に描いてある新池は延文四年(1359)に築造された溜め池。


奈良市三条町の野神

奈良市三条町

奈良市三条町


奈良市三条町

奈良市三条町


奈良市法蓮佐保田町の野神

 
奈良市法蓮佐保田町

 
奈良市法蓮佐保田町

 
奈良市法蓮佐保田町

 
奈良市法蓮佐保田町

狭岡神社西側の坂道を北に上り、神社と奈良教育大学附属中学校との間の道を右に入りグラウンドの手前に、北側斜面を削った形で祀られている。Googleストリートビューでも見ることが出来る。『奈良市史 民俗編』には、法蓮佐保田町では、六月一日の早朝に飼い牛をつれて参る。軒なみにめぐってくる当屋は、この日牛(黒色)と馬(茶色)を描いた二枚の絵馬(上図)を供えた。この地区のノガミは、狭岡神社の森の北側の一本松のところで祭られていたが、昭和四十年、建設工事のため他に場所を移した。*1という記述がある。この場所は狭岡神社の森の北側ではあるが移された場所だろうか?「野神」と書かれた石碑の前に置かれた陶器の牛と馬は二枚の絵馬(上図)の代わりなのだろう。

 
奈良市法蓮佐保田町

 
奈良市法蓮佐保田町

奈良市法蓮東垣内町の野神

正面が野神の木
奈良市法蓮東垣内町

根元には石仏がまとめられている。
奈良市法蓮東垣内町

不退寺の山門に向かって左側にある。不退寺の拝観受付の方のお話ではノーガミと呼ばれていたという。ご住職によると、野神祭りはもう何年も行われていないという。野神の木や、その一帯は寺の土地だという。

 
奈良市法蓮東垣内町

 
奈良市法蓮東垣内町

奈良市芝辻町の野神

正面が野神のクスの木
奈良市芝辻町

 
奈良市芝辻町

 
奈良市芝辻町

 
奈良市芝辻町

奈良市芝辻町


『奈良市史 民俗編』に掲載されている写真*2を見ると、遠くに建物は見えるが野神の脇は田圃のようだ。木も写真と比べると枝が取り払われているものの、かなり太く育っている。道路を挟んで残っている幹が以前の野神の木だった栴檀(センダン)だろうか?
現状は、残されているだけで充分有難いという状態。

奈良県天理市南六条町

 
天理市南六条町

 
天理市南六条町

 
天理市南六条町

 
天理市南六条町

奈良県天理市荒蒔町の野上大明神

 
天理市荒蒔町

 
天理市荒蒔町

 
天理市荒蒔町

 
天理市荒蒔町

 
天理市荒蒔町

「野上」大明神
天理市荒蒔町

 
天理市荒蒔町

天理市荒蒔町

奈良県天理市岩室町の野神

 
天理市岩室町


村域の南西隅に近いところに祀られている。祭りは6月6日に行われる。
『改訂天理市史 下巻』に「野神をまつる祠の前で、十人衆の中の最も年下の者一人が畳半分ほどの広さの土地を耕して田植えのまねをする。」*3と記述されている。
コンクリートで長方形に囲われたミニ田圃に、実際に本物の苗が植えられている。

 
天理市岩室町

道から水路を渡った先の杜が野神さん
天理市岩室町

 
天理市岩室町

 
天理市岩室町

 
天理市岩室町

 
天理市岩室町

 
天理市岩室町

 
天理市岩室町

六地蔵

奈良県道51号天理環状線と布留川が平行して南北方向に走るその西側の田の中に浮かぶ六地蔵

 
天理市岩室町

 
天理市岩室町

 
天理市岩室町

 
天理市岩室町

事代主神社
天理市岩室町


 

奈良県天理市新泉町の新泉素盞鳴神社

大和神社のウェブサイトの「大和神社周辺情報」のページに大和神社の四至(しいし)の記述がある。
社地はやや高い場所に鎮座、大和神社の森は極めて大きく長い。東側の一の鳥居から参道が200m位続いている。巾は30m程度である。 社殿のある杜は大きく広がっている。首の細長い壺のような神域である。しかし、かっては八町四方と巨大な神域であり、四至を固めていた神社があった。
【四至の固め】(耕作地・所有地・社域などの四方の境界)
 南西の固め : 素盞鳴神社(新泉町)の元の鎮座地(一本木さん)
        新泉町の素盞鳴神社は、元は、字南池辺の小丘に鎮座して「一本木さん」と呼ばれていました。
        昭和17年に柳本飛行場が作られたとき、現在の場所に移されました。
 南東の固め : 素盞鳴神社(成願寺町)
 北東の固め : 素盞鳴神社(佐保庄町)
 北西の固め : 福智堂町の市杵島神社(現在この地は、畑となっておる。)
        明治42年に永原町の御霊神社に遷座
 神域の大きさは、76万㎡ (東京ドーム16個分になります。)
元は、字南池辺の小丘に鎮座して「一本木さん」と呼ばれていました。*4

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

「この祭りは使われる作り物に特色があり、麦わらで牛・馬・じゃじゃうま(むかでとも呼ばれる)、竹で小型の唐鋤・まんが・はしごといった模造の農耕具を作ります。神事は新泉町の素戔嗚神社でおこない、本殿の前に砂場を用意してこれを水田に見立て、子どもによる田仕事の所作がとりおこなわれます。行事が終わると当屋宅でもてなしがおこなわれて終了となります[http://www.city.tenri.nara.jp/kurashi/kyouiku/bunkazai/1583714601054.html 2021.03.30]。」

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

向かって右側は住吉社でもと堂の芝という観音堂の傍らにありましたが、明治8年に「一本木さん」に移されたそうです*4

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社


新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

明治の神仏判然令以降、牛頭天王からスサノヲに祭神名や社号が変えられた例は多いのだが、ここは近世以前から素盞鳴神社だったのだろうか。牛頭天王のイメージからスサノヲが牛を守る神と解釈され詣るのも広範に見られるが、それと野神はここではどう結びついたのだろうか。他に野神が祀られた場所があったのか、それとも他村で行われていた野神への牛の息災祈願から、素盞鳴神社へ詣り、そのときに行われる行事も野神祭と呼ばれるようになったのか。

 
新泉素盞鳴神社

 
新泉素盞鳴神社

引用文献・参考資料
  1. *01 奈良市史編集審議会/編『奈良市史 民俗編』奈良市 1968 再版1971 266頁
  2. *02 奈良市史編集審議会/編『奈良市史 民俗編』奈良市 1968 再版1971 265頁
  3. *03 天理市史編さん委員会/編『改訂天理市史 下巻』天理市 1976 474~475頁
  4. *04 http://ooyamatohp.net/maps1.html#%E5%A2%83%E5%86%85%E7%A5%9E%E7%A4%BE1 2021.4.4

戻る