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下根来~遠敷(1)

史跡 「鵜の瀬」由緒記
天平の昔 若狭の神願寺(神宮寺)から奈良の 東大寺にゆかれた印度僧 実忠和尚が大仏開眼 供養を指導の后 天平勝宝四年(七五三)に二月 堂を創建し修二会を始められ その二月初日に 全国の神々を招待され すべての神々が参列 されたのに 若狭の遠敷明神(彦姫神)のみは 見えず ようやく二月十二日(旧暦)夜中一時 過ぎに参列された それは川漁に時を忘れて遅参 されたので そのお詫びもかねて若狭より二月堂 の本尊へお香水の閼伽水を送る約束をされ その とき二月堂の下の地中から白と黒の鵜がとび出て その穴から泉が湧き出たのを若狭井と名付け  その水を汲む行事が始まり それが有名な 「お水取り」である。その若狭井の水源がこの 鵜の瀬の水中洞穴で、その穴から鵜が奈良まで もぐっていったと伝える。この伝説信仰から地元 では毎年三月二日夜この淵の根来八幡へ神人と 神宮寺僧が神仏混淆の「お水送り」行事を 行う習いがある。

-案内板より-


 
鵜の瀬公園

 
鵜の瀬公園


鵜の瀬公園資料館の役行者
鵜の瀬公園

 
鵜の瀬公園


白石大明神へ
鵜の瀬公園

ここでは、良弁は下根来しもねごり 出身としている。良弁誕生の地と主張する地は、相模、近江にもある。
鵜の瀬公園


白石神社は若狭彦神社の境外社。
白石神社

若狭彦神社の創建地という。
白石神社


 
山の神

 
県道35号線を下根来の更に先に行った西の山に入ったところに立つトチノキに山の神が祀られているようだ。


 
鵜の瀬公園

 

鵜の瀬の水は資料館ではペットボトル入りで売っていた。
鵜の瀬公園

 
鵜の瀬公園


鵜の瀬

お水送り行事:3月2日午前11時に下根来八幡宮の講坊(長床)で行われる山八神事から始まる。赤土に御神酒を注いで練った供物の赤土饅頭をつけた牛王杖で2人の役頭が外陣の柱に「山」、「八」と書き豊作を祈願する。午後1時から神宮寺本堂で修二会(法華懺法)営まれ、本堂の前庭で弓打ち神事、弓射大会が行われる。午後6時から本堂で薬師悔過法が行われ閼伽水が香水に変わる。続いて達陀の行が行われ影向した八天のうち、赤装束の火天の僧が本堂回廊で達陀松明を左右に振って魔を払う。前庭の大護摩檀に火が焚かれ大護摩法要が行われる。修験者が斧の大事・法弓大事・宝剣大事を奉じ、水師(水司)が願文奉上する。そして大護摩の火を大松明、中松明、手松明に分け、水師が持つ御香水を護って鵜の瀬へ行列が向かう。到着すると神主こうどのの四方祓いが修され松明の火が護摩壇に移される。諸仏諸神を勧請し行会の満行と参拝者の諸願の込めて松明が焚き上げられる。護摩壇の火勢が最大になると行衆は鵜の瀬深淵近くに渡り、水師の送水文奉上の後、水切り神事が修され竹筒から「御香水」を遠敷川の淵の注ぎ込む送水神事が修される。送水神事を終えると護摩壇にもどり結願作法を修し、行事終了の法螺音声が吹かれる。その後、その場で出仕者や参拝者一同にお神酒が授与される。注がれた御香水は10日かかって東大寺二月堂の「若狭井」に届くのでお水取りは3月12日に行われるのだという。

 
鵜の瀬

 
鵜の瀬


 
鵜の瀬

 
鵜の瀬


護摩壇の跡
鵜の瀬

 
鵜の瀬


 
鵜の瀬

 
鵜の瀬


 
鵜の瀬

 
鵜の瀬


 
鵜の瀬

 
鵜の瀬


 
鵜の瀬

 
「京は遠ても十八里」
そうは言われても、根来坂を越えて朽木に出るのは大変そうだ。私なら熊川経由にしておきます。1里は約3.9km。


お水送りの行列か見学者向けか、
下根来と忠野の間は県道の歩道の幅が広い。
忠野

 
忠野


県道と忠野集落へ入る旧道の分岐
忠野

神宮寺へ
神宮寺


神宮寺

 
神宮寺

 
神宮寺


 
神宮寺

 
神宮寺


本堂
神宮寺


本堂は天文廿一年(1553)に朝倉義景が再建した国の重文。


由緒と年表
若狭神宮寺の由来
若狭は朝鮮語ワカソ(往き来)が訛って宛字した地名で、奈良も朝鮮語ナラ(都)が訛って宛字されている。この地方は若狭の中心で自鳳以前からひらけ、この谷は上陸した半島大陸の文化が大和(朝鮮語でナラともいう)へはこばれた最も近い道であった。それは対島海流にのってきて着岸した若狭浦の古津から国府のある遠敷(おにふ=朝鮮語ウォンフー「遠くにやる」が訛った)や根来(ねごり=朝鮮語ネ、コーリ「汝の古里」が訛っだ)と京都や奈良が百キロほどの直線上にあることである。
この地方を拓き国造りした祖先が、遠敷明神(若狭彦命)で、その発祥地が根来の白石で、都へ近道の起点に良地をえらび、遠敷明神の直孫和朝臣赤磨公が八世紀初め山岳信仰で、紀元前銅鐸をもった先住のナガ族の王を金鈴に表わし地主の長尾明神として山上に祀り、その下に神願寺を創建され、翌年勅願寺となったその秋には、紀元一世紀頃唐服を着て白馬に乗り影向し、すでに根来白石に祀られていた遠敷明神を神願寺に迎え神仏両道の道場にされた。これが若狭神願寺の起源で鎌倉時代初め若狭彦神社の別当寺となって神宮寺と改称したのである。
又、神願寺の開山赤磨(和氏)公は白石の長者の神童(幼児)を大和に伴い当寺の名僧、義淵僧正(大樹)に托され、後東大寺開山良弁僧正となられ、神願寺へ渡来した印度僧実忠和尚が良弁僧正を助けて東大寺を完成し、さらに二月堂を建て、お水取り行法を始められた。その若狭井の水源が白石の鵜之瀬であるから、白石神社で行ったのを伝え根来八幡宮では毎年三月二日、山八神事を行い同日夜、神宮寺から神人と寺僧で鵜之瀬へお水送り神事がある。

若狭神宮寺の略歴
西暦七ー四  四三代元明天皇和銅七年若狭彦神の直孫和朝臣赤磨公が金鈴を地主長尾明神と祀り鈴応山神願寺を創建する。
西暦七一五  四四代元正天皇霊亀元年勅願寺となり同年秋九月に若狭彦姫神を根来白石より迎え神仏両道の寺とする。
西暦一七九八 五〇代桓武天皇延暦十七年勅願で七堂伽藍廿五坊を再建本尊小像に付胎内に入れ大像を新造し安置する。
西屑一〇八二 七三代白河天皇永保三年雷火で本堂焼失し本尊薬師如来も焼失、千手観音(現存)は難をさけられる。
西暦一〇九一 七四代堀河天皇寛治五年勅願で本堂が再建され本尊日光、月光、不動多聞を新造し千手観音と安置する。
西暦一二三九 延応元年将軍頼経公祈願寺となり荘園寄進され七堂伽藍廿五坊を再建十二神将(現存)を安置本堂五間四面となる。
西暦二一四八 宝治二年当寺が若狭彦神社を造営し別当寺となり神宮寺と改称し、鎌倉幕府祈願寺社七大寺七大社の内に加えられる。
西暦一五四五 天文十四年雷火で木堂焼失し、諸仏像は全て難をさける。
西暦一五五三 天文二十二年本堂再建(現存)入仏落慶供養あり。
西暦一五七二 天正元年若狭守護職武田元明を山内桜本坊にかくまう。
西暦一五八二 天正十年武田元明明智光秀に同盟の罪、切腹させられる。
西暦一五八八 天正十六年当寺と若狭彦神社の荘園を秀吉が全部奪う。
西暦一六六二 寛文二年若狭大地震本常仏像破損する。
西暦一六七五 延宝三年本堂修理、仏像も修繕全て塗りなおす。
西暦一八七一 明治四年国家神道により若狭彦神社を国幣社とされ当寺境内遠敷明神社も神仏分離令により、社殿を毀し神体を差出させられる。身代りを出し神体(現存)は本堂に秘蔵する。
(寺のパンフレットより)

 
神宮寺

 
神宮寺


護摩壇
神宮寺

 
神宮寺


遠目にはお地蔵さんかと思えば、
神宮寺

 
神宮寺


 
神宮寺

神仏分離時に残した遠敷明神の神社関係のものを収蔵しているという神像収蔵庫。
神宮寺


地主神の前の平坦地が金堂跡?
神宮寺

地主神(奥の院)
神宮寺


 
神宮寺

ここらが塔の跡。


開山堂(閼伽井戸?)
神宮寺

 
神宮寺


 
神宮寺

本堂から見る茶室
神宮寺


茶室
神宮寺

 
神宮寺


円蔵坊元三大師堂
神宮寺

 
神宮寺


 
神宮寺

神宮寺本坊
神宮寺


桜本坊大膳院
神宮寺

 
神宮寺


往時は両側に僧坊があったか。
神宮寺

仁王門(北門:国の重文)
神宮寺


至徳二年(1385)の金剛力士像

 
神宮寺

 
神宮寺


 
神宮寺

 
神宮寺


神宮寺集落の石仏
神宮寺集落