索引
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- 源太夫(熱田神宮)
- 輪蔵(北野経王堂願成就寺)
- 竹生島(竹生島)
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- 野宮(嵯峨野)
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- 小塩(大原野神社)
- 雲林院(紫野雲林院町)
- 誓願寺(新京極)
- 西行桜(勝持寺)
- 熊野(清水寺)
- 源氏供養(石山寺)
- 関寺小町(長安寺)
- 三井寺(三井寺)
- 百万(清凉寺ほか)
- 玉鬘(長谷寺ほか)
- 三山(耳無山)
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- 蝉丸(蝉丸神社)
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- 鉄輪(下京区鍛冶屋町)
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- 大仏供養(清水寺)
- 正尊(金王八幡宮の金王御影堂)
- 草薙(熱田神宮)
- 望月(守山宿)
- 熊坂(瀬田の唐橋)
- 野守(春日野)
- 鞍馬天狗(僧正ガ谷)
- 車僧(車僧影堂)
- 舎利(泉涌寺舎利殿)
- 小鍛冶(合槌稲荷、御劔社)
- 雷電(比叡山東塔登天天満宮)
- 春日龍神(春日大社、春日野)
- 烏帽子折・熊坂(赤坂宿)
- 関寺小町(長安寺)
- 鈿女(椿大神社の椿岸神社)
能の古跡との巡り合い(1)
以下のほとんどの場所は、能に登場する場所だから訪れたのではなく、他の関心事・事情で行ったところなので、能の詞章からイメージされる景色・対象が写真に写っていないという事があります。御容赦ください。
なお、引用した詞章のほとんどは、金沢美術工芸大学にあった半魚文庫からの Copy & Paste です。
「白髭」
白鬚神社
地歌「不思議や社壇の内よりも。/\。誠に妙なる御声を出し。扉もおのづから。朱の玉垣かゝやき渡る。白髭の。神の御姿。現れたり。
…湖水の面鳴動するは天灯竜灯の来現かや。出端にて天女出でゝ早苗にて竜神出づ。
白髭明神だけでなく、龍神や天女まで現れた豪華メンバーによる一夜の舞楽。
「西行櫻」
勝持寺
ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居仕る者にて候。さても我春になり候へば。こゝかしこの花をながめ。さながら山野に日を送り候。 昨日は東山地主の桜を一見仕りて候。今日はまた西山西行の庵室の花。盛なるよし承り及び候ふ程に。花見の人々を伴ひ。唯今西山西行の庵室へと急ぎ候。
下京辺に住居する人は下の「小塩」でも大原野に花見に行く。ワキの流派によっては「上京辺り」と言う。いづれにしても、前日は清水の地主神社へ花見に行っているのだから、ホントに好きもの達だ。
「小塩」
大原野神社
桓武天皇の皇后だった藤原
ワキ詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居する者にて候。さても大原野の花。今を盛なる由承り及び候ふ間。若き人々を伴ひ申し。唯今大原山へと急ぎ候。サシ「おもしろやいづくはあれど処から。花も都の名にし負へる。大原山の花桜。
…
シテ詞「小塩の山の小松が原より。煙る霞の遠山桜。ワキ「里は軒端の家ざくら。
「三井寺」
シテ「月落ち鳥鳴いて。地「霜天に満ちて冷ましく江村の漁火もほのかに半夜の鐘の響は。客の船にや。通ふらん蓬窓雨したゞりて馴れし汐路の楫枕。浮寝ぞ変るこの海は。波風も静かにて。秋の夜すがら。月すむ三井寺の。鐘ぞさやけき。
能「三井寺」の前場は清水寺から始まる。「憐れみ給へ思ひ子の。行末なにとなりぬらん/\」。夜、転寝していると「我が子に逢はんと思はゞ。三井寺へ参れと新たに御霊夢を蒙りて候」。というわけで、江州園城寺へ向かう。
「源氏供養」
石山寺
シテ「我石山に籠り。源氏六十帖を書き記し。亡き跡までの筆のすさび。詞「名の形見とはなりたれども。かの源氏に終に供養をせざりし科により。浮ぶ事なく候へば。然るべくは石山にて。源氏の供養をのべ。我が跡弔ひてたび給へと。此事申さんとて。これまで参りて候。
「蝉丸」
上歌「しのゝめの。空も名残の都路を。/\。今日出で初めて又いつか。帰らん事も片糸の。よるべなき身の行方。さなきだに世の中は。浮木の亀の年を経て。盲亀の闇路たどり行く。迷の雲も立ちのぼる逢坂山に。着きにけり逢坂山に着きにけり。
この道行からだと峠を越えた感じがしないので、捨て置かれたのは山科側だったと解釈した。しかし、この蝉丸神社の創建時期はどうもはっきりしない。
「謡曲史跡保存会」の立札は浜大津側の関蝉丸神社(下社)に立っている。
「誓願寺」
地クリ「そも/\当寺誓願寺と申し奉るは。天智天皇の御願。御本尊は慈悲万行の大菩薩。春日の明神の御作とかや。
「誓願寺」で、シテの和泉式部の幽霊が
「誓願寺と打ちたる額を除け。上人の御手跡にて。六字の名号になして賜はり候へ。」
と要求する。
現在も扁額は「南無阿弥陀仏」の六字の名号になっている。
「百万」
清凉寺
ワキ次第「竹馬にいざやのりの道/\。誠の友を尋ねん。詞「これは和州三芳野の者にて候。又これに渡り候ふ幼き人は。南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候。此頃は嵯峨の大念仏にて候ふ程に。此幼き人をつれ申し。念仏に参らばやと存じ候。
"西の大寺の柳陰"(西大寺)
西照寺にある百萬の供養塔
「春日龍神」・「野守」
春日龍神
地「時に大地。震動するは。下界の龍神の参会か。後シテ「すは。八大龍王よ。地「難陀龍王。シテ「跋難陀龍王。地「娑伽羅龍王。シテ「和修吉龍王。地「徳叉迦龍王。シテ「阿那婆達多龍王。地「百千眷属引き連れ/\。平地に波瀾を立てゝ。仏の会座に出来して。御法を聴聞する。シテ「其ほか妙法緊那羅王。地「また持法緊那羅王。シテ「楽乾闥婆王。地「楽音乾闥婆王。シテ「婆稚阿修羅王。地「羅睺阿修羅王の。恒沙の眷属引連れ/\。これも同じく坐列せり。
この曲の舞台は「八大龍王は。八つの冠を傾け。所は春日野の。月の三笠の雲に上り。飛火の野守も出で見よや。」と謡われている。つまり「所は春日野」は、百千眷属を引き連れた八大龍王が現れる広さがある飛火野のこと。若宮から南の「若宮15社めぐり」の道は、「春日龍神」の前場にはなりそうだが…。
初春に若菜摘みをしたという雪消沢の古跡。
シテ一声「春日野の。飛火の野守出でて見れば。今幾程ぞ若菜摘む。これは有名な額田王の「茜さす紫野ゆき標野行き野守は見ずや君が袖振る」(『万葉集』(巻1-20)の本歌取りだが、なんとなく駄洒落っぽい。
ただし、能の「野守」は"野守の鏡"を主題に展開する。雪消沢の池は野守の鏡でもあり、この野守の老人が、実は鬼だった。
ワキ詞「いかにこれなる老人に尋ぬべき事の候。シテ詞「何事を御尋ね候ふぞ。ワキ「御身は此処の人か。シテ「さん候是は此春日野の野守にて候。ワキ「野守にてましまさば。これに由ありげなる水の候ふは名のある水にて候ふか。シテ「これこそ野守の鏡と申す水にて候へ。ワキ「あら面白や野守の鏡とは。何と申したる事にて候ふぞ。シテ「われら如きの野守。朝夕影を映し申すにより。野守の鏡と申し候。又真の野守の鏡とは。昔鬼神の持ちたる鏡とこそ承り及びて候へ ワキ「何とて鬼神の持ちたる鏡をば。野守の鏡とは申し候ふぞ。シテ「昔此野に住みける鬼のありしが。昼は人となりてこの野を守り。夜は鬼となつてこれなる塚に住みけるとなり。されば野を守りける鬼の持ちし鏡なればとて。野守の鏡とは申し候。ワキ「謂を聞けば面白や。さてはこの野に住みける鬼の。持ちしを野守の鏡とも云ひ。シテ「又は野守が影を映せば。水をも野守の鏡と云ふ事。ワキ「両説いづれも謂あり。
「野宮」
野の宮の旧跡とかや申し候ふほどに。逆縁ながら一見せばやと思ひ候。われ此森に来て見れば。黒木の鳥居小柴垣。昔にかはらぬ有様なり。
『源氏物語』第十帳「
現在は「昔にかはらぬ有様なり。」とはとても言えない賑い様。
「嵐山」
(キリ)地「悪魔降伏の青蓮のまなじりに。光明を放つて国土を照らし。衆生を守る誓を顕し。子守勝手蔵王権現。同体異名の姿を見せて。おの/\嵐の山に攀ぢのぼり。花に戯れ梢にかけつて。さながらこゝも金の峰の。光も輝く千本の桜。光も輝く千本の桜の。栄ゆく春こそ久しけれ。
石の鳥居だけ残っている。
金春安明『金春の能 上 中世を汲む』(新宿書房 2017)に、替間(アイ狂言の小書)に「猿聟」というものがあると書いてあった。「吉野の猿が嵐山に『聟入り』し、大勢がサル語で『キャアキャアキャア』と会話しながら酒盛をし謡い舞うおもしろいものです。」とある(67頁)。「嵐山モンキーパークいわたやま」の先祖は吉野から来た?
「関寺小町」
ワキ詞「これは江州関寺の住僧にて候。今日は七月七日にて候ふ程に。七夕の祭を取り行ひ候。又この山陰に老女の庵を結びて候ふが。歌道を極めたる由申し候ふ程に。幼き人を伴ひ申し。かの老女の物語をも承らばやと存じ候。
長安寺は関寺があった地に建てられたという。
「頼政」
地「是までと思ひて。平等院の庭の面。是なる芝の上に。扇を打ち敷き。鎧ぬぎ捨て座を組みて。刀を抜きながら。さすが名を得し其身とて。シテ「埋木の。花さく事もなかりしに。身のなるはてはあはれなりけり。地「跡弔ひ給へ御僧よ。かりそめながらこれとても。他生の種の縁にいま。扇の芝の草の蔭に。帰るとて失せにけり立ち帰るとて失せにけり。
「鉄輪」
ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居するものにて候。
京都市下京区堺町通松原下ル鍛冶屋町248で確かに「下京あたり」。それも鍛冶屋町。
「望月」
シテ「かやうに候ふ者は。近江の国守山の宿甲屋の亭主にて候。
…
下歌「いづくとも定めぬ旅を信濃路や。月を友寝の夢ばかり。/\。名残を忍ぶ古里の。浅間の煙立ち迷ふ草の枕の夜寒なる。旅寝の床の憂き涙守山の宿に着きにけり守山の宿に着きにけり。ツレ詞「急ぎ候ふ程に。近江の国守山の宿に着きて候。此処にて宿を借らばやと思ひ候。
京を出て東下りで中山道を歩くと、最初の宿泊地を35km弱ある守山宿とする事が多かったらしい。
「望月」は、信濃国で望月の秋長に殺された安田の荘司友治の息子・花若が、甲屋の亭主になっている元家臣の小沢刑部友房の助けにより仇討ちをする話。コトバ(詞)の部分が多いので演劇的で、子方が花若として活躍する、現在能の中でもわかりやすく楽しめる曲。しかし、これらの特徴が、演者や地謡にとって、獅子舞はもちろんだが、全体的に見た目よりも重い曲となっているのかもしれない。酒を飲んで眠っている望月の様子を探る獅子舞に扮したシテの仕草は、「紅葉狩」でやはり酒を飲んで居眠りする平維茂の様子を探る"やんごとなき上臈(女・実は鬼神)"の仕草を思い出させる。作者不詳だが、小次郎信光以降という感じの作品。
中山道二十五番目の宿に望月宿がある(現在の長野県佐久市望月)。三代集三番目の『拾遺和歌集』に紀貫之の「逢坂の 関の清水に 影見えて 今やひくらむ 望月の駒」という、能「蝉丸」が上の句を引用している歌があるが、これは望月牧から朝廷へ献上される馬を、逢坂の関で迎える「八月駒迎え」を意味している。一方、安田は望月宿よりもかなり北の飯山市木島安田のことだろうか。両者とも、これらの地域の豪族だったのだろうが接点は不明。
「鞍馬天狗」
僧正ガ谷
前シテは「僧正が谷に住居する客僧」と名乗り、後シテは僧正が谷に年経て住める大天狗だと名乗る。
名ノリ シテ「かやうに候ふ者は。鞍馬の奥僧正が谷に住居する客僧にて候。さても当山において。花見の由うけたまはり及び候ふ間。立ち越えよそながら梢をもながめばやと存じ候。
名ノリグリ 後シテ「そも/\これは。鞍馬の奥僧正が谷に。年経て住める。大天狗なり。
「鞍馬天狗」の前場で「花咲かば。告げんといひし山里の。/\。使は来たり馬に鞍。鞍馬の山の雲珠桜。たをり枝折をしるべにて。奥も迷はじ咲きつゞく。木蔭に並み居ていざ/\花をながめん。」にあわせ、牛若丸の他に、安芸の守清盛が子供が何人も出てくるのが楽しいが、これは本殿の前が舞台だろう。
「三山」
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耳成山南側の池
閻浮にかへる里人の。耳無山の池水に。沈みし人の昔がたり。
大原で来迎院を創建し天台声明を確立した良忍(ワキ)が大和国にも融通念仏を弘めようとやってきて、三山という名所があると聞いているのでこの辺りの人に尋ねようとしていると、里の女(前シテ)が現れ眼前の山は耳成山だと教える。良忍は万葉集巻一の13の中大兄 近江官御宇天皇 三山歌一首「香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古へも 然にあれこそ うつせみも 嚢を 争ふらしき(高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相辞競佼 神代従 如此爾有良之 古昔母 然爾有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相格良思青)」を知っていて詳しく話してくれと頼む。「大和の国に三山あり。香山は夫畝傍耳無山は女なり。これに依つて三つにあらそふと書けり。」と良忍は香具山が男で、畝傍山と耳成山が女性という解釈で語っている。これは幾つかある説の一つだが、この能では、香具山の膳の公成が耳成山の桂子と畝傍山の桜子という二人の遊女と契りを結ぶが、桜子の方に靡いてしまったので桂子が池に身投げしたことになっているので、この解釈となる。そして融通念仏の大念仏参加者の名帳に桂子と名を書いてくれと頼んで中入。後場では良忍が桂子を弔っていると、まず桜子の幽霊(ツレ)が現れ耳成山からの風で「風の狂ずる心乱に。かやうに狂ひさぶらふなり」、「嵐をのけてたび給へ」と頼む。それから後シテの桂子が現れ、両者が正先で手に持った桜の枝と桂の枝で打ち合う所作まである。これは「後妻を。打ち散らし打ち散らす。」と先妻の桂子が後妻の桜子を虐める
「葵上」の六条御息所の生霊のような後妻打ちに比べると、実力行使におよぶ桂子の幽霊は気が済めばさっぱりと終わって(味わい深いとは言い難いが)現実的には好ましい。この種の話では、記紀神話のコノハナサクヤヒメとイワナガヒメを連想してしまう。
「烏帽子折」「熊坂」
「烏帽子折」の後場は赤坂宿が舞台で、「熊坂」はその後日談という感じ。
「熊坂」にはシテ「御覧候ふ如く此あたりは。垂井青墓赤坂とて。その里々は多けれども。間々の道すがら。青野が原の草高く。青墓子安の森繁れば。昼ともいはず雨のうちには。山賊夜盗の盗人等。高荷を落し里通ひの。下女やはしたの者までも。うち剥ぎとられ泣き叫ぶ。」
「青野が原」という地名が出てくるが、赤坂宿の西で宿場の中ではない。能の時代よりもかなり前だが、青野が原(大垣市青野町)には美濃国分寺があり、国府は更に西の垂井町府中なので、美濃国の中心地は、次第に東に移ってきたと言える。子安の森が子安神社のあたりだとすると、ここはもう宿場の端といった場所になる。12世紀に時代設定されている「烏帽子折」の赤坂宿が、中山道の宿場として整備された位置と同一なのかも考慮すべきかもしれない。
「関寺小町」
老女物の最奥の曲で、すべての能を通じて演ずること最も難く、謡ふこと最も容易ならざるものとされてある。その意味は百とせの媼を形で、また聲曲で、描き出すことがむづかしいからといふのではない。それも素より至難のわざではあるが、最もむづかしいとせれるのは頽齢百歳枯木の如き老媼が花やかなりし昔を思ひ出して舞ひ興ずるところに係つている。枯木に返り咲くハナノ匂ひを見せることのむづかしさである。
(檜書店発行の謡本より)