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能の古跡との巡り合い(3)

「正尊」

金王八幡宮の金王御影堂
金王八幡宮は渋谷駅から六本木の方へ歩いた南側にある。ここは渋谷氏の居館・渋谷城跡でもある。金王御影堂の金王丸像は神社のWebサイトで見ることができるが、十七歳の時という謂れの通り、ちょっとぷっくらした幼さが残る顔をしている。
能の「正尊」は、「安宅」「木曽」と並ぶ三読物の一つ。「木曽」の願書は埴生の八幡宮へ奉納するためにシテの覚明が書くが、「安宅」の勧進帳と「正尊」の起請文は、その場での即興。また、「正尊」では子方が静御前として三段ノ舞を舞う。
『吾妻鏡』によると、
文治元年(1185)十月に土佐房昌俊(渋谷金王丸常光・正尊)は鎌倉から京都へ行き義経を襲うが敗退、鞍馬山へ逃れるが捕えられ六条河原で斬首される。義経が後白河法皇から頼朝追討の宣旨を得るが、周辺の国々の武士を味方に引き込む事ができず、一方、頼朝は兵を率いて上洛すべく鎌倉を出る。
十一月初めに義経と源行家は西国へ行くために大物で乗船しようとしたが逆風で叶わず(「船弁慶」)、逆に彼等を捕えるよう院宣が下される。義経は天王寺から吉野へ入るが、ここでも衆徒を味方にできず(「吉野静」「忠信」)多武峯へと逃れた後、足取りは不明となる。頼朝は途中で引き返したが、北条時政は上洛し義経・行家を捕えるために諸国に守護地頭を置くことを朝廷に受け入れさせる事に成功する。
文治三年(1187年)三月に"豫州義顯在陸奥國事。爲秀衡入道結搆之由。"という記述(義顯は義経のこと)が現れる。この間に「安宅」の出来事があったのかはわからない。



「田村」と清水寺

清水寺の田村堂
地謡「下るかと見えしが。くだりはせで坂の上の田村堂の軒洩るや。月のむら戸を押しあけて。内に入らせ給ひけり内陣に入らせ給ひけり。

地主権現から田村堂の内陣に入るのなら本堂の後を通り抜け後戸から入ったのだろう。外から中に入るのに、戸を押し開けて入るというのは本当は不自然な感じがする。
瀬田の唐橋も通る。


正法寺
シテ「あれは上見ぬ鷲の尾の寺。

お寺の方は「自然居士」の旧跡として訪ねてくる人が多いと言っていたが、「自然居士」は高台寺辺りにあった雲居寺が舞台。
室町時代の鴨川右岸、東山辺りは時宗の寺や道場が多く、活発な活動を行っていた。



清水寺は、さすが有名どころで、様々な能の舞台となっている。

「花月」
ワキ詞「急ぎ候ふ程に。是ははや花の都に着きて候。まづ承り及びたる清水に参り。花をも眺めばやと思ひ候。
クセ「そも/\この寺は。坂の上の田村丸。大同二年の春の頃。草創ありしこの方。今も音羽山。嶺の下枝の滴に。濁るともなき清水の。流を誰か汲まざらん。或時この瀧の水。五色に見えて落ちければ。それを怪しめ山に入り。その水上を尋ねるに。こんじゆせんの岩の洞の。水の流に埋もれて名は青柳の朽木あり。その木より光さし。異香四方に薫ずれば。シテ「さては疑ふ所なく。地「楊柳観音の。御所変にてましますかと。皆人手を合はせ。猶もその奇特を知らせて給べと申せば。朽ち木の柳は緑をなし。桜にあらぬ老木まで。皆白妙に花咲きけり。さてこそ千手の誓には。枯れたる木にも。花咲くと今の世までも申すなり。
ここでワキの父は花月が「何処ともなく失」った我が子だと気付く。ワキ詞「あら不思議や。これなる花月をよくよく見候へば。某が俗にて失ひし子にて候ふはいかに。」
「熊野」
クセ「清水寺の鐘の声。祇園精舎をあらはし。諸行無常の声やらん。地主権現の花の色。娑羅双樹のことわりなり。生者必滅の世のならひ。実にためしある粧。仏ももとは捨てし世の。半は雲に上見えぬ。鷲の御山の名を残す。寺は桂の橋柱。立ち出でて峯の雲。花やあらぬ初桜の祇園林下河原。シテ「南を遥に眺むれば。地「大悲擁護の薄霞。熊野権現の移ります御名も同じ今熊野。稲荷の山の薄紅葉の。青かりし葉の秋また花の春は清水の。唯たのめ頼もしき春も千々の花盛。シテ「山の名の。音羽嵐の花の雪。地「深き情を。人や知る。
気の乗らない花見へ行く熊野の心情が絡んだ名所案内の詞章。「音羽嵐の花の雪」と「深き情を。人や知る。」の鮮烈な対照。
「盛久」
シテサシ「南無や大慈大悲の観世音さしも草。さしも畏き誓の末。一称一念なほ頼あり。ましてや多年知遇の御結縁空しからんや。あら御名残惜しや。一セイ「いつか又。清水寺の花盛。地「帰る春なき。名残かな。
鎌倉へ連行される盛久の最期を覚悟しての参拝。瀬田の唐橋も通る。

東岸居士
ワキ詞「是は遠国方の者にて候。我此程は都に上り。彼方此方を一見仕りて候。又今日は清水寺へ参らばやと存じ候。
上洛した者には必見の場所になっている。
「大仏供養」
詞「これは平家の侍悪七兵衛景清にて候。われ此間は西国の方に候ひしが。宿願の子細あるにより。此程まかり上り清水に一七日参篭申して候。
「宿願の子細」は建久六年(1195)三月、東大寺再建の落慶法要で奈良を訪れる源頼朝を暗殺する計画なのだが、清水寺参篭の効果はなく失敗する。

田村神社鈴鹿の禊せし世々までも。思へば嘉例なるべし。さるほどに山河を動かす鬼神の声。天に響き地に満ちて。万木青山動揺せり。カケリ「。シテ詞「いかに鬼神もたしかに聞け。昔もさるためしあり。千方といひし逆臣に仕へし鬼も。王位を背く天罰にて。千方を捨つれば忽ち亡び失せしぞかし。ましてやま近き鈴鹿山。地「ふりさけ見れば伊勢の海。/\。安濃の松原むらだち来つて。鬼神は。黒雲鉄火をふらしつゝ。数千騎に身を変じて山の。如くに見えたる所に。シテ「あれを見よ不思議やな。地「あれを見よ不思議やな。味方の軍兵の旗の上に。千手観音の。光をはなつて虚空に飛行し。千の御手ごとに。大悲の弓には。知恵の矢をはめて。一度放せば千の矢先。雨霰とふりかゝつて。鬼神の上に乱れ落つれば。こと%\く矢先にかゝつて鬼神は残らず討たれにけり。


観音様であっても、必要ならば武力行使を辞さない。
詞章からは鈴鹿峠の鈴鹿側の感じがするが、田村神社は滋賀県甲賀市土山町に鎮座する。


「玉鬘」

長谷寺の二本の杉
地謡「ほの見えて。色づく木々の初瀬山。/\。風もうつろふ薄雲に。日影も匂ふ一しほの。さぞな景色もかく川の。浦わの眺までげに。たぐひなや面白や。川音きこえて里つゞき。奥もの深き谷の戸に。つらなる軒を絶々の霧間に残す。夕かな霧間に残す夕かな。かくて御堂に参りつゝ。/\。補陀落山も目のあたり。四方の眺も妙なるや。紅葉の色に常磐木の二本杉に着きにけり二本杉に着きにけり。
シテ詞「これこそ二本の杉にて候へよくよく御覧候へ。
ワキ詞「さては二本の杉にて候ひけるぞや。二本の杉の立所を尋ねずは。詞古川の辺に君を見ましやとは。何とよまれたる古歌にて候ふぞ。
シテ「是は光る源氏のいにしへ。玉葛の内侍この初瀬に詣で給ひしを。右近とかや見奉りてよみし歌なり。共にあはれと思しめして御あとをよく弔ひ給ひ候へ。


『古今和歌集』 卷十九 雜軆歌
題不知
 奈良初瀨川 布留古川交匯邊 二本佇在彼杉矣
  經年累月後 還願在此能相會 猶此二本高杉矣
『源氏物語』
第二十二帖 玉鬘
右近、
「 二本の杉のたちどを尋ねずは 古川野辺に君を見ましや
 うれしき瀬にも」
と聞こゆ。


玉鬘庵跡
「ますます訪ねたくなる奈良 」というサイトの「長谷寺ルート」-「歩くまえに知っておきたい長谷寺にまつわる物語」(http://www3.pref.nara.jp/miryoku/masumasu/2504.htm 2015/4/14確認)には、
江戸時代の中頃まで、玉鬘が暮らした玉鬘庵は、現在の宗宝蔵と駐車場の中間あたりにあった。
と書いてある。この玉鬘庵は、左の写真を撮った與喜天満神社参道の位置とは異なる
2018年11月に玉鬘神社が建立された。主祭神が玉鬘姫命はともかくとして、夕顔姫命と右近姫命も祀られている。同時に、少し南に鍋倉神社が再興された。



「鈿女」

椿岸神社(鈿女本宮)
シテ「神は人の敬うに依って威を益す。久しかるべき君が代の直ぐなる道を守りの神。天鈿女尊とは、我事なり。
地謡「御殿しきりに鳴動して、宜祢が鼓も声ごえに。
シテ「御神楽の調べ、時至れり。
地謡「和光同塵自ら光も朱の玉垣、玉椿、神体、あらたに見えたまう。


この曲は廃曲だったが、昭和四十五年(1975年)に当時の金剛流宗家金剛巌師が復曲・再演し、以降毎年春の大祭に金剛流宗家がシテを務め演じられている。



「竹生島」

近江今津
竹生島
上歌「処は海の上。/\。国は近江の江に近き。山々の春なれや花はさながら白雪の。降るか残るか時しらぬ。山は都の富士なれや。なほさえかへる春の日に。比良の嶺おろし吹くとても。沖こぐ船はよも尽きじ。旅のならひの思はずも。雲井のよそにに見し人も。同じ船に馴衣浦を隔てゝ行くほどに。竹生島も見えたりや。



竜神拝所



「自然居士」

大津松本
大津市松本1丁目の平野神社
アイ「人商人ならば東国方へ下り候ふべし。大津松本へ某はしり行き留めうずるにて候。
シテ「暫く。御出で候ふ分にてはなり候ふまじ。居士此小袖を持ちて行き。彼の女に代へて連れて帰らうずるにて候。
アイ「いやそれは今日までの御説法が無になり候ふべし。
シテ「いや/\説法は百日千日聞し召されても。善悪の二つを弁へん為ぞかし。今の女は善人。商人は悪人。善悪の二道こゝに極つて候ふは如何に。今日の説法はこれまでなり。願以比功徳普及於一切。我等与衆生皆共成。仏道修行の為なれば。
地謡「身を捨て人を助くべし。
ワキワキツレ「今出でて。其処ともいさや白波の。此舟路をや。急ぐらん。
シテ「舟無くとても説く法の。
地謡「道に心を。留めよかし。
シテ詞「なう/\其御舟へ物申さう。
ワキ「これは山田矢橋の渡舟にてもなきものを。何しに招かせ給ふらん。
シテ「我も旅人にあらざれば。渡の舟とも申さばこそ。その御舟へ物申さう。
ワキ「さて此舟をば何舟と御覧じて候ふぞ。
シテ「其人買舟の事ざうよ。


大津松本とは石場港のことだろう。石場の常夜灯は、移設されているが現在も健在。



「弱法師」

四天王寺石の鳥居シテ詞「げにげに日想観の時節なるべし。盲目なればそなたとばかり。心あてなる日に向ひて。東門を拝み南無阿弥陀仏。ワキ詞「何東門とはいはれなや。こゝは西門石の鳥居よ。
シテ「あら愚や天王寺の。西門を出でて極楽の。東門に向ふは僻事か。
ワキ「げにげにさぞと難波の寺の。西門を出づる石の鳥居。
シテ「阿字門に入つて。
ワキ「阿字門を出づる。
シテ「弥陀の御国も。
ワキ「極楽の。
シテ「東門に。向ふ難波の西の海。
地謡「入日の影も舞ふとかや。



俊徳丸の話は、説経節の「しんとく丸」、文楽(人形浄瑠璃)の「摂州合邦辻」、さらに折口信夫の『身毒丸』(青空文庫にあり)にもなっている。「しんとく丸」(信徳丸)は、いかにも説経節らしくこれらの中で一番壮絶なストーリー。「摂州合邦辻」は高安通俊の後妻の玉手御前が先妻の子の俊徳丸を恋い慕うという設定で、登場人物も多くややドタバタ感があるが面白い。



「采女」

采女神社シテ語「昔天の帝の御時に。一人の采女有りしが。采女とは君に仕へし上童なり。始めは叡慮浅からざりしが。程なく御心変りしを。及ばず乍ら君を恨み参らせて。此池に身を投げ空しくなりしなり。



「雲林院」

雲林院ワキ、ワキツレ二人次第「藤咲く松も紫の。/\。雲の林を尋ねん。

半蔀
ワキ詞「これは都紫野雲林院に住居する僧にて候。



「東北」

東北院此寺いまだ上東門院の御時。和泉式部此梅を植ゑおき。軒端の梅と名づけつゝ。目がれせず眺め給ひしとなり。かほどに妙なる花の縁に。御経をも読誦し給はゞ。逆縁の御利益ともなるべきなり。詞「これこそ和泉式部の植ゑ給ひし軒端の梅にて候へ。



東北院は、江戸時代にこの地へ移転してきた。能の「東北とうぼく」が書かれた時は移転前なので、現在の鴨沂高等学校と今出川通りの間にあったとされている。
和泉式部と「軒端の梅」が題材だが、初秋に訪れた梅の木はその雰囲気からは遠い。


和泉式部は新京極六角と蛸薬師あたりにご縁が深い。

誓願寺

誠心院の和泉式部の墓とされる宝篋印塔


誓願寺

誠心院



「隅田川」


木母寺・梅若塚シテ「なう/\今の念仏の中に、正しくわが子の声の聞え侯。此塚の内にてありげに候ふよ。
ワキ「我等もさやうに聞きて候。所詮此方の念仏をば止め候ふべし。母御一人御申し候へ。
シテ「今一声こそ聞かまほしけれ。南無阿弥陀仏。
子方「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と。
地「声の内より。幻に見えければ。
シテ「あれは我が子か。
子方「母にてましますかと。
地「互に手に手を取りかはせば又消え/\となり行けば。いよ/\思はます鏡。面影も幻も。見えつ隠れつする程に東雲の空も。ほのぼのと明け行けば跡絶えて。我が子と見えしは塚の上の。草茫々として唯。しるしばかりの浅茅が原と、なるこそあはれなりけれなるこそあはれなりけれ。





「班女」

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真念寺 班女の観音堂「かやうに候ふ者は。美農の国野上の宿の長にて候。さても我花子と申す上﨟を持ち参らせて候ふが。過ぎにし春の頃都より。吉田の少将殿とやらん申す人の。東へ御下り候ふが。此宿に御泊り候ひて。かの花子と深き御契の候ひけるが。扇をとりかへて御下り候ひしより。花子扇に眺め入り閨より外に出づる事なく候ふほどに。かの人を呼びいだし追ひいださばやと思ひ候。いかに花子。今日よりしてこれには叶ひ候ふまじ。とく/\何方へも御いで候へ。





「鵺」

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鵺大明神ワキ「不思議やな目前に来る者を見れば。面は猿足手は虎。聞きしにかはらぬ変化の姿。あら恐ろしの有様やな。シテ「さても我悪心外道の変化となつて。仏法王法の障とならんと。王城近く遍満して。東三条の林頭に暫く飛行し。丑三ばかりの夜な/\に。御殿の上に飛び下れば。地「すなはち御悩しきりにて。玉体を悩まして。おびえまいらせ給ふ事も我がなす業よと怒をなしゝに。思ひもよらざりし頼政が。矢先に中れば変身失せて。落々磊々と。地に倒れて。忽ちに滅せし事。思へば頼政が矢先よりは。君の。天罰を。当りけるよと今こそ思ひ知られたれ。其時。主上御感あつて。獅子王といふ御剣を。頼政に下されけるを宇治の。大臣賜はりて。階をおり給ふにをりふし郭公音づれければ。大臣とりあへず。シテ「ほとゝぎす。名をも雲居に。上ぐるかなと。仰せられければ。地「頼政。右の膝をついて。左の袖をひろげ月を少し目に懸けて。弓張月の。いるにまかせてと。仕り御剣を賜はり。御前を。罷り帰れば。頼政は名をあげて。我は。名を流すうつほ舟に。押し入れられて。淀川の。よどみつ流れつ行く末の。鵜殿も同じ芦の屋の。浦わの浮洲に流れ留まつて。朽ちながらうつほ舟の。月日も見えず。暗きより暗き道にぞ入りにける。遥に照せ。山の端の。遥に照せ。山の端の月と共に。海月も入りにけり。海月と共に入りにけり。





「呉服」


呉服神社シテサシ「これは津の国呉服の里に。住みて久しき二人の者。二人「我この国にありながら。身は唐土の名にしおふ。女工の昔を思ひ出づる。月の入るさや西の海。波路はるかに来し方の身は唐土の年を経て。こゝに呉服の。里までも。身に知られたる。名所かな。

シテ詞「これは応神天皇の御宇に。めでたき御衣を織りそめし。呉織漢織と申しゝ二人の者。今又めでたき御代なれば。現に現れ来りたり。


唐船が淵は、呉服神社から北へ直線で約720mの猪名川左岸にあり、呉からやってきた呉織と漢織が上陸した所と伝える。


伊居太神社ツレ「又あやはとりとは機物の。糸を取り引く工ゆゑ。綾の紋をなす故に。あやはとりとは申すなり。