現在のような稲荷山の「お塚」や「お滝」は近世以前には見られず、これらが造られたきっかけは、本殿北側(向かって左)の社務所あたりにあった本願所「愛染寺」が明治初期の神仏判然令により廃止され、廃仏毀釈で山中にあった堂宇や祀ってあった仏像なども破棄・焼却されてしまった事にあると考えられる。稲荷神社は官幣大社として伊勢神宮を頂点とする国家神道の枠組みに組み込まれ、従来からの稲荷信仰や神仏習合の信仰は俗信とされた。明治初期に(伏見)稲荷神社は稲荷山の境内地のほとんどを上知・官有化された。その結果、稲荷神社の境内地は、山麓の社殿周辺と、山上の七神蹟(上之社神蹟、中之社神蹟、下之社神蹟、荷田社神蹟、御膳谷奉拝所、長者社神蹟、田中社神蹟)、及びそこへの参道のみとなった。しかし、俗信とされた稲荷信仰を持つ人々は、このような変化に追随できなかった。官有化されたが管理が不行届きだった稲荷山に、彼等は自らの信仰の場として、小さな円墳形の土饅頭の上に御幣を立てた依代となる場を築いた。これは「新拝所」と呼ばれたが、それがより頑丈な板碑状のものに変わり、明治二十年代後半以降に「お塚」と呼ばれるようになったと考えられる。神社はこうした動きを規制しようとしたが、境内地として残された七神蹟周辺ですら徹底できなかった。明治三十五年(1902)に、現在の「お山めぐり」コースよりも山上側の官有地が神社へ返還された時、神社は返還された地域での「お塚」の新設を禁じ、修理のみを認める事とした。しかし、実態は新設のものを修理として申請したらしく、この時点で633基だった「お塚」は以降も増加し、昭和七年の『お塚台帳』で2254基、昭和四十一・四十二年の調査では、境内地に3322基、境外地に4440基、合計7762基の「お塚」が確認されている。なお、昭和四十二年の調査の境内地には、昭和三十七年(1962年)に神社へ返還された参道よりも麓側の国有地も含まれている。また昭和三十七年の返還時に、神社は本殿祭神の分霊の依代としての「お塚」建立を認めることにした。
「お塚」にお参りする一般の信者や巫女、修験者などが水垢離・滝行場を求めたことは容易に想像できる。稲荷山の「お滝」はこうした人々の求めに応じて造られ、早くは明治二十年代後半頃から出現したのではないかと思われる。それ以降、大正末までの間に、(1)山上の神蹟を信仰する大阪の中小企業社長など有力な信者が出資し、神蹟にある茶店の親族等が管理を行なう"神蹟の名を冠した"「お滝」、(2)熱心な信者自らが造り滝守として住み着き管理する、彼等が信仰する神名を付けた「お滝」、(3)その他、主に大正年間に、境内・国有林の外側(麓側)に私的な「お塚」建立用地を開発し、その用地内に「お滝」を付属して設置したものが造られた。「お滝」は「お塚」と異なり、それなりの造成工事を要するので境内地や、かつての官有地に造るのは困難だったらしく、神社管理のもの以外は「薬力滝」を唯一の例外として総て現在の境内地の外側、つまり官有地だった部分の外側にある。なお、神社が自ら造成した「お滝」として、昭和九年(1934)に竣工した「清明舎」と共に造られた「清明滝」がある。これは国家神道が強まる中で「稲荷山にはびこる俗信」と見られた「お塚」の盛行に対し、神社側が「稲荷信仰の一大是正」と銘打って造ったものであった。また、その下流の「清滝」は民有地だったが所有者が亡くなった後、神社が買い取り境内地となった。このように「お滝」は大正年間から最近までの間に所有者が変わっているものもある。ほとんどの「お滝」が宅地開発などに不適当な谷間にあるため、買い取るのは茶店や宗教団体に限られている。「お塚」には巫覡の「先生」と信者の名を連ねたものが少なくないが、「お滝」については「先生」は夜間に単身/または信者と共に幾つもの「お滝をいただいて」廻る事はあっても、巫覡自らが主体的に「お滝」を造るという事はなかったようである。
滝名 | 上の 地 図 の 番 号 | 伏 見 稲 荷 神 社 御 山 獨 案 内 ・ 大 正 二 年 | 伏 見 稲 荷 全 境 内 名 所 図 絵 ・ 大 正 十 四 年 | 伏 見 稲 荷 お 山 め ぐ り | 神蹟・神名 | 所在地・成り立ちなど |
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薬力滝 | 1 | ○ | ○ | 薬力社 | 「お山めぐりコース」に面し、稲荷山で最も標高が高い場所にあるお滝である。当初のお滝は現在地よりも神蹟に向かって右側にあった。『伏見稲荷全境内名所図絵』に描かれていないが、薬力社だけを描いて省略されたのであろう。 | |
傘杦早滝 | 25 | ○ | 傘杉大神 | 大正二年の『伏見稲荷神社御山獨案内』では川の右岸に「傘杦早滝」が描かれているが、『伏見稲荷全境内名所図絵』には代わりに「初音滝」が描かれている。 | ||
初音滝 | 30 | ○ | 天龍社の右横に初音滝があった。「初音さん」は不動明王のこと。推測の域を脱し得ないが、傘杉社から清滝へ下る道は清明舎建設に伴って付け替えられた可能性が高い。 | |||
清明滝 | 2 | ○ | 「稲荷山のお塚についての覚え」168頁に(清明舎建設の)「この工事に先立って、従来の初音ノ滝の大幅な改修が行われ、そこに建立されていたお塚のすべては御膳谷・薬力・傘杉等へ移され、滝は禊場として清明滝と改称された。」とある。 当時の宮司、高山昇は「清明舎掛額之記」(『稲荷講志 第二』一八七頁)に「在来の滝は渓流落下数尺の一条あるのみにして滝壺亦甚狭し 仍て清冽なる傘杉の湧水を集めて五条と為し十数人同時に斎戒沐浴することを得しむ。」と書いている。これからも、清明舎・清明滝構築に際し、かなりの地形の改変が行われたことが窺える。 |
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清滝 | 3 | ○ | ○ | ○ | 昭和五十二年(1977年)に境外地から境内へ編入された。滝の管理は2000年前後から伏見稲荷大社が行っている。神社管理となった当初は勤番が常駐していたが、現在は無人で御膳谷奉拝所が管理している。 | |
白滝 | 4 | ○ | ○ | ○ | 白龍社 | 富山県出身の男性が富山県から白龍社を勧請した。「お滝」は白龍社の付帯施設と言えよう。白龍社では月次祭が行われている。水源近くに立地していることから、稲荷山のお滝の中でも、かなり古い時期に造られたと思われる。 |
熊鷹滝 | 10 | ○ | 新池から八嶋池に注ぐ川の北側、毎日稲荷の背後あたりにあったと推測する。 | |||
権太夫滝 | 7 | ○ | ○ | ○ | 権太夫 田中大神神蹟 |
北陸から脚の悪い男性が恢復を祈念して稲荷山を参拝して廻っていた。すると、ある日、山に杖を忘れて下ってきた。その霊験への御礼にこの滝行場を開いた…という。下記のねざめ滝、荒木滝と同様に、かつては古池からの水をお滝に使っていた。古池が農地になった後に稲荷山から水を引き、滝の位置も変更された。 |
ねざめ滝 | 8 | ○ | 『続お山のお塚』では「明心」と書かれている場所と思われる。 「伏見の稲荷山には、北谷の茨谷と明心というお塚の霊場で、「何々家合祖神霊」、「何々家先祖霊神」が、十七も(昭和四十年現在)祀られている。これはまた、木曽御嶽の麓や山中に立ち並ぶ十万余の霊神碑に似た面をもっている。この霊神は木曽御嶽の先達をはじめとして、行者たちの霊を祀るマイリ墓である。」(島薗進「稲荷信仰の近代」『朱』47号所収) 『続お山のお塚』には、浅岡家祖神霊、岩原家祖神霊、宇野家祖神霊、大河内家祖神霊、伊丹正庸大神、梅姫、勝也大明神、幸義大神などの神名が記載されている。なお、「末廣滝」でも登美子姫命のような神名をみかける。 |
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荒木滝 | 9 | ○ | ○ | ○ | 現在は教派神道神道十三派の一つである「神理教」の伏見稲荷教会となっている。 | |
御壺滝 | 5 | ○ | ○ | ○ | 「五社滝」の少し上流にある。現在は無住だが最近まで住人がいた家がある。 | |
五社滝 | 6 | ○ | ○ | ○ | 『伏見稲荷全境内名所図絵』では、「御壺滝」と「五社滝」は位置が逆に描かれている。実際は.「五社滝」の方が下流(絵図の左側)にある。 出雲大社教七条教会がある。 |
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東福寺滝 | 27 | ○ | 所在地不明。『伏見稲荷神社御山獨案内』では「五社滝」の北西に描かれており、1949年創立の日吉ヶ丘高校のあたりにあったのではないかと推測する。 | |||
大石滝 | 26 | ○ | 京都府京都市山科区西野山岩ケ谷町という西野山の東麓近くにある。 「大正一四年に建立された稲荷山お山詣り、山伏信仰のお瀧行場の小祠。瀧自体が神体と社殿を兼ねる。大石良雄隠棲旧跡の大石稲荷大明神の分祀を祀っていた。」(説明板より要約) |
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不動滝 | 28 | ○ | 『伏見稲荷全境内名所図絵』には岩龍稲荷(大岩大神か)の北に描かれている。 | |||
岩滝 | 11 | ○ | ○ | 「末廣滝」のすぐ上に「岩滝大神」と書いた鳥居が立つ枯れたお滝がある。大岩大神は稲荷山の東にある巨岩で明らかに磐座として崇敬されてきたと思われ、稲荷山の三ツ峰とは別の起源の磐座信仰かもしれない。 | ||
岩龍滝 | 12 | ○ | 『伏見稲荷山参拝圖』では「末廣滝」から大岩大神へ上った最初のお滝として描かれているが、その位置は不明。 | |||
末廣滝 | 13 | ○ | ○ | ○ | 一ノ峰 神蹟 |
一ノ峰末廣大神の神名を冠している。稲荷山一ノ峰と春繁社の間から南に下った南谷で、管理人が住んでいる「お滝」としては一番奥にある。 |
三光滝 | 29 | ○ | 『伏見稲荷神社御山獨案内』に「七面滝」から二丁、「末廣滝」から二丁余と記載されている。 | |||
御剱滝 | 14 | ○ | ○ | 御劔社 神蹟 |
「三光滝」を買い取り改名した可能性がある。更に裏山を上ったところに白砂天大神(死後の明治天皇としている。)を主とするお塚群がある。田中な津というオダイがお塚の下に白砂舎を建て稲荷山で滝行を積んでいた。それは大正後半~昭和初期のことだが、「御劔滝」の成り立ちとの前後関係はわからない。 | |
白菊滝 | 15 | ○ | ○ | 三ノ峰 神蹟 |
大正年間に既存のお滝を買い取ったらしい。『伏見稲荷神社御山獨案内』の「七面滝から二丁」の記載に合わないが、こちらが「三光滝」だったのかもしれない。三ノ峰白菊大神の神名を冠している。 | |
七面滝 | 16 | ○ | ○ | ○ | 七面 大明神 |
宝塔寺の飛地境内だと聞いた。宝塔寺背後の七面山に山梨県の七面山から勧請された七面大明神が祀られている。 |
鳴滝 | 17 | ○ | ○ | ○ | 鳴瀧大神 | 「七面滝」の少し先。 |
熊鷹本滝 | 18 | ○ | 七面宮 熊鷹大明神 |
七面宮の裏に熊鷹社があり、その滝行場がこの「熊鷹本滝」だという。七面山にあった滝行場が失われ、ここに移したと言われる。 | ||
青木滝 | 19 | ○ | ○ | ○ | 二ノ峰 神蹟 |
「お滝」への入り口脇の説明板に、(二ノ峰)青木大明神の御瀧であります。と書いてある。 |
眞心滝 | 20 | ○ | ○ | 建築用砂採取場となり消滅。 | ||
弘法滝 | 21 | ○ | ○ | ○ | 弘法大師 | 弘法大師を信仰した地元出身の男性が開いた。その時期の上限は明治二十年代に遡る。 |
命婦滝 | 22 | ○ | ○ | ○ | 呼聲社 | 2013年9月の台風18号で多大の被害を被ったが復旧した。 |
八嶋滝 | 23 | ○ | ○ | 八嶋大神 | 「矢島滝」と書いてある絵図もある。 | |
清メ滝 | 24 | ○ | ○ | 伏見稲荷大社奥社のすぐ南の谷にある。 |