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日向(ひなた)の寺々

2011年11月

神奈川県伊勢原市の大山(おおやま)の東を日向川という川が流れている。小田急線愛甲石田駅の東で相模川に合流してしまうが、その上流には幾つかの寺があり、それぞれ興味深い歴史と文化財を有している。

浄発願寺跡

無常山一之澤院浄発願寺は1608年~1609年頃???に弾誓(たんせい)上人開山の天台宗弾誓派総本山。弾誓は1609年には京都大原古知谷に阿弥陀寺を開いているが、古知谷阿弥陀寺は後に浄土宗となった。弾誓にとっては宗派はなんでもよかったのかもしれないが、幕府の仏教宗派への統制が寛文五年(1665年)に出された諸宗寺院法度など本末制度として強化・徹底されてくると、洞窟で木食行を行い作仏や雨乞いなどで地元の人々の喜捨を得る弾誓の後継者達は、生き残りのために組織力・政治力がある大教団に近づかざるを得なかったのだろう。
二世但唱は天海と近しくなり、後に浄発願寺も天台宗東叡山寛永寺の末寺となり、四世住職空誉の時に尾張徳川家との関係が深まり最盛期を迎えた。
左下の説明に「相模の三大十夜」についての記述があるが、御十夜法要は浄土宗寺院で十月に十日十夜不断念仏を唱える法会のこと。それが天台宗の浄発願寺で盛んだったというところに、この寺の微妙な立ち位置がうかがえる。実際、弾誓の系譜は後に多くが浄土宗に転じている。「相模の三大十夜」は、鎌倉の光明寺や平塚の海宝寺は浄土宗寺院で問題ないが、三番目の寺については、東京都八王子市の浄土宗大善寺とするものもある。八王子は武蔵國で、明治初期に一時期神奈川県南多摩郡だったので仲間入りさせてもらったのかもしれない。弾誓は専修念仏が主で、浄土宗との親和性は高く、その流れは以降も続いていたのだろう。



 

亮台天阿の座禅石と書いてあるが、どの石の事やら。
天阿上人は浄発願寺十二世住職で18世紀前半の人物。


Hinata

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日向川を渡ると正面にあるのは閻魔堂跡。

「南無阿弥陀仏」。本尊は阿弥陀如来像。


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宝篋印塔。
元禄五年(1692年)尾張徳川家の徳川綱誠(つなのぶ)が正室瑩珠院新君にいぎみ(1654年-1692年)を弔うために建てたと書いてある。新君の母は尾張藩初代藩主徳川義直の娘の京姫(二代藩主光友の妹)で、父は八条宮家の幸丸(後の広幡忠幸)。綱誠は尾張徳川家三代目藩主だが、藩主になったのは1693年。
四世空誉は久保田藩(秋田藩)佐竹氏の出身。佐竹氏は特に将軍家や徳川御三家に重く用いられた大名とも思われないが、空誉はこれら徳川氏や佐竹氏の特に女性からの信仰を得た。こうした庇護で浄発願寺は空誉の代に最盛期を迎えた。


山門跡
山号額を書いた南岳悦山は中国からの渡来僧で宇治市の黄檗宗萬福寺代7代住持。

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谷側に石仏・石塔が点在する石段を上がる。
弾誓に続く二世但唱は作仏聖として各地に石造仏を残している。
五智山蓮華寺
因幡堂平等寺
石仏ではないが、東京都品川区の如来寺に「高輪の大佛」と呼ばれた五智如来坐像がある。


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昭和十三年(1938年)の山津波で本堂、庫裏は倒壊してしまい、川下の現在地へ移転した。

Hinata

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向かって右側の庫裏があった辺りは林になってしまっている。


Hinata

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この二枚の案内板は動かされてしまったのだろう。


Hinata

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三界は欲界、色界、無色界だとか。萬霊なので、そこの総ての生き物という事で無縁仏などの墓地に立っている事が多いようだ。

「徳川綱誠とその夫人奉納」と書いてあるが、時期が不明なので「その夫人」が誰なのかはわからないが、宝篋印塔と同じく正室の瑩珠院新君か。


Hinata

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岩屋の外、右側に空誉の卵塔が見える。


Hinata

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ここを訪れたら、これを見ずには帰れない。
この岩屋は掘ったというよりも自然の洞穴を堀り拡げたのではないだろうか?
天井から水が落ちている湿気が多い岩窟で、長くいるには環境が悪い。
左の説明にある弾誓上人は1552年尾張国海部郡の生まれ、1613年古知谷の阿弥陀寺で即身成仏した木食の僧。