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新羅善神堂、法明院

2011年11月~12月

新羅善神堂

新羅善神堂

新羅善神堂へ行く途中の石仏


大津市消防局の後ろにある「弘文天皇長柄山前陵」。
弘文天皇とは、壬申の乱で敗死した即位したかも定かではない大友皇子に明治時代に諡号として付けられたもので、この陵も学問的にはまず根拠がないだろう。
伝承としては神奈川県にある「大友皇子の墓」の方が微笑ましい。

弘文天皇陵

弘文天皇陵


鳥居があっても、さほど違和感がないのは新羅明神という守護神だからか。

新羅善神堂

新羅善神堂


新羅善神堂

新羅善神堂は足利尊氏が寄進した国宝。
祀ってある秘仏?の新羅明神坐像も国宝。
お堂の前は実にそっけないただのひろば。
延暦寺の僧が唐での修行からの帰りの船で嵐にあったが神仏?の加護で無事に帰国できたという話は、慈覚大師円仁と智証大師円珍に共通していて、各々、赤山明神と新羅明神を祀った。いづれも朝鮮半島、特に新羅の神様の影が濃厚。赤山明神が山門派の、新羅明神が寺門派の守護神となっている。なんか。出来過ぎている感じがする。


新羅善神堂

新羅善神堂


檜皮葺きの三間社流造。


新羅善神堂

新羅善神堂


垂木の先端の模様と欄間の彫刻。欄間の彫刻があまりよく見えませんが。

新羅善神堂

新羅三郎義光の墓

新羅三郎義光の墓

新羅三郎義光の墓


古今著聞集の時秋物語では、後三年の役で兄・義家を助けに奥州へ向かう途中、足柄峠の笛吹石で笙の師、豊原時忠の弟の子、時秋に時忠から学んだ秘曲を教えたという事になっている。

土饅頭のお墓。こういう円墳は朝鮮半島に多いらしいが、それがここに平安時代の武士の墓として存在する事が何を物語っているのかはよくわからない。


新羅三郎義光の墓

新羅三郎義光の墓


法明院

法明院

法明院


法明院

法明院


法明院

法明院


法明院

法明院


唐土山法明院は1723年(享保8年)に義瑞が創建(中興?)。山内唯一の律院。
上の写真のようにとても眺めが良い。

法明院

法明院


法明院

Ernest Francisco Fenollosa(1853-1908)は明治時代に日本美術を海外に紹介し、岡倉天心と社寺の調査を行うなど、日本美術の恩人的存在。
William Sturgis Bigelow(1850-1926)は1882年にEdward Sylvester Morse、Ernest Fenollosaと共に来日。フェノロサや岡倉天心らと寺社の調査に参加した。彼は日本で蒐集した40,000点に及ぶ美術品をボストン美術館に寄贈した。これだけのものが日本から流出してしまったのは残念な事だが、彼が買い取らなければとっくに失われていたかもしれない状況であったのも事実で、良しと考えなければいけないのだろう。


フェノロサの墓。


法明院

法明院


法明院

左は月心と刻んであるのでビゲローの墓。
下はジェイムス・ホートン・ウッズの供養塔
天台密教研究のため昭和9年に来日しインド哲学を教授の傍らヨーガスートラを講義、法明院にて住職直林敬範大阿闍梨より授戒した。
終戦時、東京帝国大学文学部で宗教学の助教授だった岸本英夫が戦前にハーバード留学時、ウッズは、ヨーガスートラと宗教神秘主義を教えた。岸本は国家神道の廃止と神社の扱いに関してGHQの政策を補佐する立場にあった人物で、戦後の神社のあり方を方向付ける転換点に絡んでいた人物。


法明院

法明院